ようやく、超高校級達は黒幕を追いつめることに成功した。
 今まで死んでいった者に、その身を投げ打って道を切り開いてくれた友に、報いる瞬間が訪れるのは近い。外の世界に出ることができたのならば、生物室で眠っている皆の死体を埋葬してやらなければ。そんなことを苗木が考えられるくらいのところまできたのだ。
 ここまで生き延びることができたのは、たったの七人だった。彼らはこの場に至るまでに様々な苦難を前にした。親友を失った朝日奈、一時はおしおきされかけた苗木。しかし、彼らはここまでたどりついたのだ。
 モノクマの正体を明かし、表舞台にまで引きずり出すことができた。
 本当に、あと一歩のところだった。あと一歩で、外の世界に出ることができるはずだった。それを望んでいるはずだった。
「世界が、既に滅んでいる……だと?」
 石丸が愕然と呟く。
 顔を青くしているのは彼だけではない。ジェノサイダーと江ノ島以外の人間は、全て同じ顔色をしている。
 ここまでやってきて、今さら帰るべき世界が崩壊しているなど、どうして信じられるのだ。残酷などという言葉では足りない。世界の絶望が真実とするならば、それは残酷を越えた何かだ。
 外の世界が既に滅びに向かっているというのならば、帰るべき場所すら残されていないというのならば、今までの殺人は何だったのだ。外を求め、犯行に手を染めてしまった者、その犠牲となった者、人質という言葉に密通を行っていた者。全て、無意味だったようではないか。
「ねぇ、そんなことよりさ、まだ思考を止めるべきじゃないんじゃないのかい?」
 江ノ島が声を低くする。楽しげに歪んだ口元に、苗木は背筋が凍る。
 彼女の表情が言っている。まだ絶望は終わっていないのだと。だが、目の前に示されてしまった現実以上の絶望などあるのだろうか。平均を体現化したかのような人間である苗木には、到底思い付かない。しかし、本当にそんな絶望があるのならば、それは何よりも冷たいものなのだろうことだけはわかった。
 可愛らしい彼女の唇が言葉を紡ぐ。
「私はあなた達から、何の記憶を奪ったのでしょーか!」
 瞬間、苗木は思考を止めた。
 言われて思い出した。先ほどまで、唐突に現れた絶望に囚われ、そのことを忘れてしまっていた。今、自分達が求めなければならない真実はそこにある。全てを暴き、外へ出なければならない。そうして、その現実を思い出した苗木の脳は、残酷にもすぐさま答えをたたき出してしまったのだ。
 脳が白く塗りつぶされていくのを感じ、すべてを否定したい気持ちに駆られた。
 それでも、真実を導き出さなければならない。外の絶望を確かめるためにも、それを望んで散っていった仲間達のためにも。
「……一年前に起きた事件。
 でも、ボクがこの学園に入学してきたとき、そんな事件は起こってなかった」
 どこかで否定されることを望みながら、苗木は言葉を搾り出す。
 縋る思いで江ノ島を見れば、彼女は瞳まで歪めて笑っていた。苗木が導きだしてしまった答えに太鼓判を押すかのようだ。
「そ、そうだべ!
 やっぱり、全部嘘っぱちだべ!」
 普段からあまり頭を使っていないのか、葉隠は反射のように苗木の言葉に乗り、江ノ島の言葉を否定しようとする。今までならば、彼の言葉を容易く打ち砕いただろう。しかし、今は違う。苗木は彼の言葉を否定するのが怖かった。そこから導き出される答えから目を背けたかった。
 言葉が出ない。震える拳を柵に置き、苗木は絶望に呻いている心臓の音を聞く。
「それは違うわ」
 凛とした声が裁判所に響いたのは、そんな時だった。
 恐怖に潰されそうになってしまっている苗木に代わり、霧切が声をあげたのだ。
「そうでしょ? 苗木君」
 超高校級の探偵である彼女は、真実から目を背けることを許さない。導き出されたものの先に、どのような絶望があったとしても、それが真実だというのならばそれを口にする。
 背を伸ばし、真っ直ぐに前を見つめている霧切の姿に苗木は唇を噛んだ。
 彼女も本当は恐ろしいと思っているはずなのだ。冷静沈着な人間でも、世界が滅んでいると言われれば動揺する。未知への恐怖が生まれる。ただ、それを表に出していないだけだ。探偵という職を否定しないためにも、自身の生きかたを肯定するためにも。
「……あぁ、そうだね」
 苗木は彼女に悲しい笑みを向けた。
 悲しい真実を、生き延びた仲間に突きつけることを決めたのだ。
 だが、それは絶望に屈するための笑みではない。全てを諦めたものでもない。
 単純に、掴み取れる真実の悲しみを思っただけだ。
「ど、どういうことなの?」
 朝日奈が不安気に眉を下げて尋ねてくる。見れば、笑っている江ノ島と、憮然と立っているジェノサイダー以外は、誰もが不安そうな顔をしていた。十神辺りは察しがついているようだが、自分の推理が間違っていることを望んでいる、というところだろう。
 ここに残っている仲間達は、既に十分過ぎるほどの絶望を見てきた。トドメもさされた。そこに、苗木は追い打ちをかけなければならない。
 心苦しさはある。しかし、これだけは霧切に言わせたくなかった。
 死んだ全ての人間の思いと記憶を引きずると決意した苗木だからこそ、絶望に塗れた真実を口にしなければならない。
「ボク達から奪った記憶……。
 それは、学園での生活の記憶、だよね?」
 沈黙が降りる。
 十神と霧切は目を伏せ、ジェノサイダーは眉をひそめ、他の者達は驚愕に目を見開いていた。
 苗木はその空気から、皆の絶望をひしひしと感じる。無論、超高校級の絶望である江ノ島も感じているだろう。その証拠に、彼女の唇が綺麗な弧を描いていく。
「大正解! 大正解よ! 人間!
 そう、この私様がお前達から奪った記憶。それは、お前達が過ごした学園生活の記憶!」
 ハズレだ。間違いだ。もっとよく考えろ。苗木は、そう言ってくれることをどこかで期待していた。その思いを成就させてくれるほど、絶望は甘くないと知っていながらも。
 彼は視線だけで生き延びた仲間達の様子を確認した。
 覚悟をしていたらしい十神と霧切、ジェノサイダーは何とか平静を保っている。しかし、他の者は違う。目をそらしていたのか、本当にその可能性に思い当たらなかったのか。どちらにせよ、彼らは何の覚悟もしていなかった。無防備な心に、絶望が深く突き刺さる。
「そんな、そんな馬鹿なこと……」
 石丸の声が揺れる。脳の許容量をとうに越えてしまっているのだ。世界の滅亡だけでも手一杯だったというのに、加えられた絶望はあまりにも重すぎた。告げられた言葉は真実であるならば、彼らは本当の意味での仲間、友人同士で殺しあいをしてきたことになるのだ。この学級裁判の前に渡された、自分以外の面子が映っていた写真のような笑顔で幸福そうな仲間達が、無残に死んでいったことになる。
「ありえねーべ!
 大体、オレはこの学園で生活どころか、授業だって受けたことねぇべ!」
 ドレッドヘアーを掻き毟るようにして葉隠が叫ぶ。
 苗木は一度目を伏せ、彼を見据える。
「……それは、違うよ」
 弱々しいながらも、はっきりとした言葉に葉隠が動きを止めた。
 悲しいことだが、苗木は葉隠の意見を否定できるだけの材料を手に入れてしまっていた。今となっては、手に入れることのできたことが幸福なのかは微妙なところだ。
「これ、見てよ。
 葉隠君のノートだよね?」
 ロッカーから拝借させてもらったノートを取り出す。そこには、紛うことなく葉隠の名前が、彼の文字で書かれている。無論、中に書かれている文字も葉隠のものに違いない。
 書かれているもの自体には見覚えがないが、読めば確かに高校生レベルの授業を受けたように思えるものだ。
「オレの字、だべ……」
 ノートを受け取った葉隠は、愕然と呟いた。
 彼も書かれている内容自体には覚えがないのだろう。しかし、それでもノートを見れば高校生として授業を受けていたのだということくらいはわかってしまう。
「当たり前じゃないですか。うちのクラスには超高校級の風紀委員である石丸君がいましたからね。
 いくらクズの葉隠君でも授業を真面目に受けないという選択肢は存在していませんでした。
 よって、そのノートは正真正銘、あなたが苦心して作り上げたものです」
 江ノ島が追い打ちをかける。
 不真面目な葉隠が、生真面目な石丸に説教を受ける。容易に思い浮かべることのできる構図だ。その過程を経て、彼がしっかりと授業を受けるところまで想像できてしまう。
「とても……。楽しかった、ですよ……。
 最初の、一年間は……ですけど」
「待ってよ!
 ねぇ、今は一体いつなの? 最初の一年間って何?」
 朝日奈が江ノ島の声に言葉を被せる。
 様々なことがありすぎて、上手く頭が働かない。元より、朝日奈は自分が頭を使うことに向いているとは思っていない。事件が起こったときも、基本的には体を動かして調査することが多かった。
 だが、それにしても現状は酷すぎる。記憶を失ったということが真実だとして、自分達は今、何歳なのだろうか。体にさほどの変化はないので、十年単位ではないだろうと思われる。しかし、相手は何をしでかすかわからない人間だ。体までいじられていたって不思議ではない。
「っだぁ! うっせーなぁ。黙って聞いてろよ。順番に話をしてやってんだからよぉ!
 テメェらは、一年間平和に、つまらなく、幸福に学園生活を送った。んで、全員仲良く二年になりましょうって時に――」
 江ノ島の雰囲気が変わる。またキャラに飽きてしまったのだろう。
「学園中が絶望に侵されちゃったんだよぉ!」
 楽しげに手を広げ、彼女は笑う。
 誰もが彼女をおぞましいバケモノを見るような目で見ていた。
「それから……。私達は、この学園に閉じこもりました……。
 次世代の、最後の、希望となるために……」
「閉じこもった、ということは……」
 呻くように言ったのは石丸だ。彼は頭の回転が悪い人間ではない。この極限状態の中でも、彼の頭は正しく機能しているらしい。
「そうです。あなた達は閉じ込められた、のではなく。自ら閉じこもったのです。
 窓を塞いだのも、玄関扉を塞いだのも、全てあなた方自身です」
 誰もが息を呑む。腐川と記憶の共有ができていないジェノサイダーにとっても、このことは衝撃的なものだったようだ。
 重苦しい絶望に満たされた中で、始めに声をあげたのは石丸だった。
「全て……。間違っていた、というのか」
 彼の目からは大量の涙が流れている。感情的に撒き散らされているのではない。目の前にある、どうしようもない絶望に、ただただ涙が流れているのだ。これが他人事であったならば、可哀相に、と同情することもできただろう。しかし、今は誰も石丸に同情できるだけの余裕がない。
 それどころか、石丸の言葉に胸をえぐられた者もいた。
「間違いなんて言わないでよぉ!」
 とうとう朝日奈も涙を流し始めた。
 殺されたのも、殺したのも、全て間違いだったというのならば、彼らの生と死は何だったのだ。クロとなり死んでいった者達は罪を犯した。それ自体は間違いであったかもしれない。けれど、彼らの外を渇望した思いだけは、間違いであってはならないはずなのだ。
 二人分の涙が裁判所に落ちていく。
「殺っちまったもんに、間違いもクソもねーんだよ!
 どんなご大層な理屈や大義名分を掲げたってな、残された最後の希望は殺しあいをしたんだ。
 残った人類に対する、サイッコーの絶望のためになぁ!」
「……なるほど」
 十神家が滅んだことを聞かされて以来、黙したままだった十神がようやく口を開く。今までのような強さや棘はなかったが、それでも彼が絶望に染まりきってしまったわけではないと知るには十分なものだった。
「貴様は、オレ達が殺しあいをしている映像を電波で流していたのだな?」
 外の世界に、まだまともな人間がいるとすれば、その行為は実に効果的なものになるだろう。最後に残されたと言われている希望が、無残に、残酷に、無意味な殺しあいをするのだ。
 大そう絶望的な映像が大量に撮れていることだろう。それこそ、生きる希望を見失ってしまうほどに。
「おや。大正解だよ。凡人に成り果てた人間よ」
 高圧的に江ノ島は笑う。
 見下すような態度に、十神は一瞬だけ眉をひそめたが、それもすぐに消える。多くを言葉にできるほど、彼の精神はまだ回復していないのだ。
「そうでーす。
 みんなのコロシアイを、全国放送することで、まだ希望を信じている連中を絶望させることにしたんです!
 あ、みんなは知らないだろうけど、学校の前にレジスタンスの連中が集まってたこともあるんだよぉ」
 涙に暮れていた朝日奈と石丸が顔をあげる。ただし、そこに希望を見出した様子はない。その逆だ。まさか、と彼らは顔を青ざめさせ、江ノ島を見つめる。
「勿論……。皆さん、ガトリングで、ハチの巣になりました……」
 悲しげに、しかし楽しげに、江ノ島は朗々とその時のことを口にしてく。
 学園の中にいる哀れな希望達を助けようと活動した者達、彼らが死の間際に放った断末魔、日に日に減る希望を捨てていない人。彼女の口から発せられる言葉の一言一言が、残された希望達を串刺していった。
「もう、やめてよ……」
 朝日奈が弱々しく言葉を零す。
 今まで精神を壊さずに生き延びてこれたこと自体が幸運であったほど、彼女は普通の女の子だ。耳を抑え、その場にうずくまる様子を見ていると、今まで気丈に振舞っていたことさえ痛々しく思えてしまう。
「あなた方は見事、全ての謎を解き明かしました。
 世界のことも、奪われた記憶も、全てです。
 この時点で、あなた方には私をクロとする権利を獲得しました」
 絶望に脳まで浸ってしまっていた面々も、わずかに目を見開き、江ノ島を見る。
 彼女が口にしたのは、この裁判が始まる前に提示された勝利条件だ。そして、江ノ島は己の負けを認めるような発言をした。このまま彼女をクロにしてしまえば、外に出るという悲願は達成される。
 果たして、それが幸福に繋がっているのかは別の話であるが。
 苗木は、江ノ島が外へ出る絶望について説いてくるのだろうと考えていた。伊達にコロシアイ学園生活の中で絶望してきたわけではない。彼女のしでかしそうな絶望にも憶測くらいは立てられる。
 彼は、次の瞬間にその自信さえ砕かれることとなった。
「だけど、少し結論を出すのは先にしよう。
 ここまでアタシを楽しませてくれたせめてものお礼をしたいと考えているんでね」
「お、オレの占いによれば、それは良いもんじゃねーべ……」
 葉隠が言う。彼の占いに頼らずとも、その答えは全員の頭に浮かんでいた。
 今さら、超高校級の絶望に期待することなど、何一つとしてありはしない。
「そう言うなって! どうせ、テメェらに拒否権なんてねーんだからよ!
 あと、全員分を用意するのには飽きちまったんで、石丸! テメェにだけ用意してやった! ありがたく受け取れ!」
「ボ、ボクか……」
 顔を青くしながらも、石丸は拒絶の言葉を吐かなかった。
 気分は重いが、誰かがさらなる絶望に晒されるのは回避できぬことだった。ならば、仲間達でなくてよかった、石丸はそう思える人間だったのだ。少なくとも、今にも精神を崩壊させてしまいそうな朝日奈よりも、彼は自分の精神の方が強靭であるという自負を持っていた。ここまできたのだ。できることならば、全員で生き延びたい。
 そんな気持ちを胸にした石丸に対し、江ノ島はにんまりと笑う。
「それぇじゃぁ、はーい! どーぞ!」
 彼女がリモコンを操作すると、外の世界を映していたモニターが切り替わる。
「な、何だ?」
 そこに映し出されたものを見て、石丸は思わず疑問の声をあげた。 
 彼と同じく、モニターに視線をやっていた仲間達は、そこにある映像に怪訝な表情を浮かべる。
 何故なら、そこにあったのは絶望的なものでもなんでもなく、むしろその逆の光景。
「石丸君と大和田君……?」
 苗木が言ったように、モニターにはその二人が映されている。制服から察するに、自分達が忘れてしまっている空白の時間に撮られたのだろうことはわかる。だが、その組み合わせと光景に、違和感を覚えずにはいられない。
 コロシアイ学園の中で、石丸と大和田は仲が良かったということは決してなかった。それどころか、彼らは風紀委員と暴走族の総長、ということもあって、対立を起こしていた印象の方が大きい。
 しかし、モニターにある二人は違う。
 まるで何年も共に絆を作り上げてきた友人同士のように、肩を組みあい、心の底から笑みを浮かべているのだ。
「これが、あなたからのプレゼンとかしら?」
 霧切が尋ねる。これだけで終わるとは思えない。殺しあった者達が同じクラスの仲間であったことは既に判明しており、幸せな時間を切り取った写真も数枚見た後だ。今さら、この程度の映像では絶望など生まれやしない。
「せっかちな女は嫌われるぞ?
 この私様の話は最後まで聞きなさい」
 尊大な態度で、江ノ島は悠然と石丸に視線を向けた。
「覚えて、いないんですよね……?
 あなたと、大和田君は……とっても、仲が良かったのに」
 石丸はわずかに顔をしかめる。
 生真面目な彼は、今まで友人らしい友人を得たことがなかった。それ故に、過去に作り上げていたらしい友人関係を忘れてしまっていることに些細ではあるが、ダメージを受けていた。
 自分が、あの暴走族の総長と友人になっていた、というのは俄かには信じられない。だが、二年と言う歳月がそれを可能にしたという考えがないわけではない。今はよく知らぬ大和田の一面を、昔の自分は知っていたのかもしれない。それを思い出せないことは悔しいことだ。しかし、それだけだ。
 今の石丸にとって、大切なのは生きている仲間だ。残酷なようではあるが、覚えのない者を引きずって生きるほど、石丸は聖人君子ではなかった。
「……その様子では、さして思うところはない、といったところでしょうか。
 酷い男ですね。互いを兄弟と呼びあい、私達クラスメイトをドン引きさせるほどだったというのに」
「何がどーなったらそうなったんだべ……」
 絶望も忘れ、思わず葉隠が口を挟む。
 持ちうる記憶の中にいる石丸と大和田では、兄弟と呼びあうような仲にはどうやったってなれない。
「アタシだって知らねぇよ! ある日、突然そうなってやがったんだ!
 肩組んで、兄弟って呼びあって! それからは、もうべったりだ! 気色悪いったらなかったぜ!」
「何それぇ。良いじゃない!
 だが、もんちゃんときよたんか。チッ。萌えやがらねぇ……」
 ジェノサイダーは、記憶の改竄はされていないものの、日常の光景については何一つ知らない。そのためか、一人で謎の一喜一憂をしていた。当然、江ノ島はその辺りに関してはノータッチだ。絶望が好きな彼女といえども、好みくらいはある。
「ちなみに、これがその証拠だよ。
 保存しておいて本当によかった。こんなサプライズができたんだからね」
 再び江ノ島がリモコンを操作すると、画面の中がまた切り替わる。
『あ? 何してんだ、江ノ島』
 それは動画だった。
 制止していた映像が動きと音声のついたものに変わった。
『んー。ほら、もうすぐ二年になるじゃん?
 私達はクラス変わんないけどさ、せっかくだし思い出撮っておこうかなってさー』
 江ノ島の声も聞こえる。今のような、キャラがコロコロ変わっているような雰囲気はない。どちらかといえば、死したむくろが演じていた江ノ島に近い雰囲気が感じられる。
 ぼんやりとモニターを見ながら、誰もが空白の二年に思いを馳せた。
 大和田と石丸がメインに映っているが、後ろの方では死した友人や、まだ生きている友人が見え隠れしている。時折、楽しそうな笑い声や話し声も聞こえてきた。それらは、彼らが失ってしまった時間の幸福さを知らしめる。
『それは良い考えだな!』
『でっしょー?』
『そんなら、もっと色んな奴を撮ってやれよ』
『いや、始めはこのクラスで最も仲良くなると思ってなかったのに、最も仲良くなっちゃった二人からだなーと』
『んだそれ』
『ボクと兄弟はクラスで最も仲が良いからな!』
『兄弟……。それ、言ってて恥ずかしくなんねぇか?』
『何がだ?』
『いや……。何でもねーわ』
 動画の中の大和田は照れくさそうにしながらも、どこか嬉しそうだ。石丸も実に嬉しそうな顔で大和田のことを兄弟と呼んでいる。
 彼らがどれほどの信頼関係を築いているのかということは、聞くまでもないといった感じだ。
『よーし。じゃあ、突撃インタビュー!
 あんた達、結局どうやって仲良くなったのさ』
『ボクらの友情は運命だったのだよ! そこに理由などないっ!』
『さっすが兄弟。良いこと言うぜ!』
『例え、死したとしても、来世でまた新たな誓いを結ぶだろうさ』
『おう。男同士の約束だ!』
 二人は先ほどの映像にあったように、肩を組み笑いあう。音量は変わっていないはずなのに、彼らの笑い声は非常に大きい。これを毎日聞いていたのだとすれば、記憶にない学園生活は存外大変なものだったのかもしれない。それとも、それすら日常と化して、他の皆も笑いあっていたのだろうか。
『なにそれ〜』
 江ノ島の苦笑いした声が聞こえ、映像が途絶えた。
「どう? どう?
 とーっても幸せな映像だったでしょぉ?」
 弾む声に、苗木は石丸を見た。嫌な予感がしたのだ。
「――っ!」
 その予感は当たっていた。
 石丸は、膝をついて口を抑えていた。顔色は今まで以上に悪く、今にも吐き出しそうな様子だ。
 写真や映像越しに見た友情とは違う。動きと音がつくというのは、想像以上に人の心をかき乱す。石丸の様子を見て、朝日奈は改めて現状を認識したようで、彼と同じく顔色を悪くしていた。
 仲の良かった時代など、気にはなっても遠い世界のできごとのようにしか考えていなかった。それが、急に現実味を増して目の前に迫ってきたのだ。
 動画の当事者であった石丸が受けたダメージは、朝日奈の比ではない。覚えていないはずなのに、体が大和田の温もりを思い出しているかのようだった。肩を組んだ感覚も、笑いあった光景も、頭の片隅にちらついて離れない。
「石丸君、気をしっかり持って。
 ここで絶望に負けては駄目よ」
 霧切が救いの手を差し伸べるが、阻むように江ノ島が言葉を重ねてくる。
「それにしても、コロシアイ学園生活を見ていて、私は人というのは簡単には変わらないのだということを実感しました」
「……どういうことだ?」
 もったいぶる言い方に、十神が食いつく。
 彼の知らぬ時間を知っている江ノ島は、今回のコロシアイ学園生活の様子をどのように見ていたのか。気にならないわけではない。
「とっても、似ていました……。
 皆さん、同じでした。朝日奈さんは、昔も大神さんと、仲良し……でした。葉隠君は、怪しいこと、たくさん……。
 腐川さんは、十神君のことが、好きになりました……。舞園さん、と桑田君、は……クラスで、始めて大きな喧嘩した、人です。
 不二咲さんも、やっぱり大和田君に、憧れていました……。セレスさんと、山田君も、一緒にいることが……多かったです」
 どれも覚えがないようであることばかりだ。
 仲の良い人間、行動を共にする人間、傍にいる殺人者と被害者。
 記憶が消されているとはいえ、二年程度のものだ。人格や価値観が変わりきってしまうことはないだろう。そう考えてみれば、コロシアイ学園生活や行動と、自分達が希望ヶ峰学園に入学してからの様子は、似ていて当然なのかもしれない。
「だからこそ! 私様は楽しむことができたのです。
 お前が大和田とわかりあうことなく死別したあの瞬間!
 この絶望の空間を作り上げたことが正しいと確信した瞬間でもあった!」
 江ノ島の言葉は、真っ直ぐに石丸の胸を射抜いた。彼はかすかな息をもらし、瞳孔を縮める。
「最初の殺人と最初の喧嘩、なんてモンが一致するくせに、テメェらの友情は一致しなかった!
 不二咲はちゃーんと大和田に憧れたのになぁ?
 なーにが「ボクらの友情は運命だったのだよ!」だ。来世どころか、今生でさえ友情を失ってんじゃねーか!」
 記憶の改竄を口にすることはできない。
 他の者達は知らぬうちに同じ行動をたどっているのだから。不二咲は大和田に憧れ、朝日奈は大神と交友を持ち、腐川は十神に惚れた。ならば、時間や環境を言い訳にすることもできない。二人の間に、新たな契りが交わされることはなかった。真実はそれだけだ。
「ボク、は……」
「石丸君! しっかりしてよ!
 そんなの、全部あいつが悪いんじゃないか!」
 コロシアイを仕向けたのは江ノ島だ。
 石丸が大和田と兄弟になれなかったことは残念かもしれない。だが、死別してしまったのは、間違いなく彼女のせいなのだ。石丸が必要以上の咎を背負う必要はない。
 苗木は必死に叫ぶ。ここまできて、友人を壊してなるものか。その一心だった。
 しかし、無常なる江ノ島盾子の前では、懸命なる言葉は無為になる。
「ねぇ、石丸君。
 私は大和田君の秘密を一生懸命調べたんだけどさぁ……」
 言わせてはいけない。聞かせてはいけない。
 苗木は声を荒げる。
「江ノ島ぁ!」
「あんたは聞いてたんじゃないのかい?
 大和田自身から、あの秘密」
 彼女の声は、苗木の声を通り抜け、石丸に届く。
 その瞬間、石丸の中でパズルのピースがぴったりはまってしまった。
「――そうだ」
 写真が頭に思い浮かぶ。映像が、動画が、江ノ島の言葉の一つ一つが。石丸の脳に刺激を与えていく。
「ボクは、知っていた」
 笑いあった日々。喧嘩をした日々。共に泣いた日。
「兄弟の過去を」
 涙が溢れた。
 頭が痛い。だが、それ以上に胸が痛い。
「ボクはっ。
 し、知っていたんだ……!」
 石丸は頭を抱え、その場にうずくまる。
 悲痛な声に、誰もが彼の記憶が戻ったことを知る。
「兄弟に、教えてもらって……」
 思い出すのは、夕焼けの差し込む教室だ。
 既にクラスメイト達は下校しており、残っているのは日直の石丸と、それに付き合ってくれていた大和田だけ。
『なぁ、兄弟。お前にだけ、白状しておきたいことがあるんだ』
 その時の彼は、石丸の目を見ていなかった。無意識に他者を威圧する瞳が、その時ばかりは伏せられていたのが印象的だった。震えた声も合わさり、石丸よりも大きいはずの大和田が小さく見えていた。
 石丸が言葉を促してやると、大和田は辛そうに言葉を紡ぎ始めた。聞いている方が苦しくなってしまうような声だった。それほどまでに言いづらいことならば止めておいていいのだ、と石丸が何度も言いそうになるほどに。結局、最後まで大和田を止めなかったのは、苦しみを押してまで告白をしてくれた大和田に対する礼儀だった。
『オレは……。一番、尊敬していた、兄貴をっ……!』
『兄弟』
 息を荒く吐き、今にも泣き出しそうな大和田を抱きしめた。忘れていたことが不思議なほど、今の石丸は当時の感触や温もりを思い出すことができる。大和田の肩がわずかに震えていたこともだ。
「ボクは知っていた!」
 石丸は喉が裂けるのではないかと思えるほど、悲痛な叫び声をあげた。
『辛かっただろ……』
『っう……ぁ……。
 オ、オレには、そんな……こと、思う、ことさえ……。許されねぇ、んだ……』
 抱きしめていたため、大和田があの時、どのような表情をしていたのか石丸は正確には知らない。しかし、涙を流していたことだけはわかる。彼は、嗚咽をもらし、石丸の腕を弱々しく掴んでいたのだから。
「兄弟が、どれほど苦しんでいたのかを!」
 長い間、罪に押しつぶされていた。その苦しみを誰にも吐き出さず、懺悔することさえ許されておらず、自らの心の中で罪を肥大化させていた。
 心を許した相手とはいえ、石丸に罪を告白することは、相当に勇気がいったことだろう。それを乗り越え、大和田は石丸に全てを告げてくれたのだ。始めて弱さを見せてくれた。他の誰にも見せなかった弱さを、石丸だけに。
「それなのに、ボクは……!」
 全てを踏みにじった。
 学級裁判で、不二咲を殺した理由を問いただし、強さに嫉妬した大和田を否定した。つまらない理由だと切り捨てた。
 息を飲んだ顔も、胸を抑える姿も、苦しげな声も、今ならば全て理解できる。故に、石丸の心が引き裂かれる。
「だって、今の石丸は何も知らなかったじゃない!」
 朝日奈の声も、もう石丸には届かない。
 彼の思考は、二つの出来事でいっぱいだ。
 罪を告白してくれた大和田。罪を暴かれ一人で死んで逝った大和田。どうして、あのような酷い言葉が吐けたのだろうか。学級裁判が終わってから、おしおきが執行されるまで、石丸が大和田に向かって投げた言葉は、どれも彼を傷つけるものばかりだった。
 全てを思い出した今となっては、あの言葉の一つ一つが凶器であったとわかる。
 あの日、大和田は死んだ。肉体的な意味だけではない。全てを否定され、踏みにじられ、心から死んだのだ。
「ボクが兄弟を殺したんだ……!」
 スイッチを押した指さえ憎くなる。
 迷いなく大和田を選んだ指が、彼を肉体的にも殺した。
 死の重みが、石丸の背中に圧し掛かる。
「い、石丸っち。せめて、大和田っちをちゃんと埋葬してやるってので、ここは一つ落ち着くべ」
 流石の葉隠も、石丸の叫びに胸を痛めたらしい。彼を落ち着かせるべく、そっと言葉をかける。
「あー。それは無理だねぇ」
「え?」
 即座に入った否定に、葉隠は間抜けな声を出す。
「覚えてないのですか? 大和田紋土のおしおきがどのようなものだったのか」
「――あ」
 江ノ島の言葉は具体的な答えではなかったものの、葉隠の失言を理解させるには十分なものだった。
 大和田には、遺体がないのだ。
 他の者達ならば、損傷は激しくとも何とか遺体が残っている。ただ一人、大和田だけが原型を何一つ留めていない。彼は、謎の技術によって食品へと姿を変えられてしまったのだから。
「ちなみにぃ。
 あのバターはわたしがホットケーキにつけて食べちゃったのとぉ。
 パンにしちゃってから、外でまだしぶとく生きてる、くれいじーなんとかって、人達にあげました!」
 息を飲む音が聞こえた。それが誰から聞こえたのかはわからない。もしかすると、全員のものだったのかもしれない。
 人から形成されたバターを食した江ノ島にも戦慄を覚えるが、最も嫌悪感を掻き立たせたのは後半の部分だ。くれいじーなんとか、というのは、暮威慈畏大亜紋土のことだろう。
 大和田が総長を務めていたチームの名前だ。忘れようにも、印象に残りやすいネーミングだったこともあり、全員がその名前を覚えていた。
「勿論、彼らは……知ってました。
 総長が……バターになった、と……。でも、空腹には、耐えられないんです……」
 外の世界は、食糧すらままならないようだ。そうでなければ、人が人を食うなどありえない。例え、人の形を保っておらずとも、その事実を知っていれば、口に含むことさえできないはずだ。
 それを押してまで喰った連中の心情は、計り知れない。
「ボロボロ泣いてやがったぜ!
 アタシがパンをやっても、数日は手もつけなかった。でもな、最後には、大和田の名前を呼びながら食ってたよ!」
 江ノ島は笑う。当時のことを思い出して、愉快でしかたがないようだ。
「ぐ……げぇ……」
 とうとう、石丸が嘔吐した。
 水っぽいものが床を汚す。
「石丸!」
 朝日奈が心配そうに名を呼ぶが、彼女も足腰が上手く立たないらしくその場から動かない。朝日奈に代わって素早く動いたのは、霧切だった。彼女は石丸に近づくと、そっと背中を撫でた。
「詰まった様子はないわね」
 冷静な観察眼は、超高校級の探偵ならではなのだろうか。
「ボク……は、きょう、だいを……」
 涙と鼻水、口からは吐瀉物の残りかすのようなものを垂らしながら、石丸はどこを見ているのかわからぬ目で上を見る。天国にいる大和田でも見ているつもりなのかもしれない。
 苗木は、漠然ともうダメなのだろうと理解した。
 ここを無事に出られたとしても、石丸は生き延びようとしない。死を待つだけの人形に成り果てている。
「それで、これからのことなんだけどね」
 嘔吐と嘆きだけが響く中、江ノ島はそんなものなど意にも返していないといった風に言った。
「この裁判も投票によってクロを決める。
 お前達、希望が満場一致で私様をクロとすれば、私様はおしおきを受ける。
 あぁ、安心するがいい。私様は投票には参加しない」
 クロが自白をしている今、満場一致以外の答えなどない。苗木はそう確信していた。江ノ島の、次の言葉を聞くまでは。
「もしも、あなた方がクロを外した場合、一生ここに留まり緩やかに老衰してもらう、というおしおきを執行いたします」
 衝撃が走る。
 江ノ島の口から出てきたのは、今までのおしおきとは全く違うものだ。
 残酷な死を迎えるのではない。閉鎖的な空間の中でのみ、とは言っても、平穏にクラスことができるのだ。どうせ、外の世界は荒れている。ろくに生きていけるのかさえ怪しい。
「たーだし! 一人でもクロを外した場合、苗木! お前にきっついおしおきを受けてもらうぜぇ!」
 一人を犠牲にすればいい。今までと同じだ。
 自分達が生き残るために、クロを処刑し続けてきた。今回もそれと同じだ。何も変わらない。周囲の目の色が変わっていく。己の未来を決めるために、彼らは選択しようとしている。
「霧切、さん……。
 あなたの、お父様は……超高校級達に、生き延びて欲しい、と……願っていました」
 言外に、確実に生き延びられる方を選べという。
 二年という月日の記憶を失い、父をも失った今、彼女の心は父親に縛られてしまっている。言葉を交わすことのできぬ死者は、時として生者を強く縛りつける。大和田がそうであったように、霧切もまた、死者に縛られているのだ。
「みんな……」
 苗木は一人焦る。
 このままでは自分が死んでしまう。それも、耐え難い苦痛と共に。
 しかし、それとは別の理由も存在していた。
「本当に、それでいいの……?」
 拳に力を込め、全員に届くように声を張りあげる。
「ここで一生を過ごす、それでいいの?」
 江ノ島の話が本当ならば、一年前、自分達はこの学園に篭ることを選択した。苗木が発見したDVDから見ても、それは嘘ではないのだろう。外の世界の凄惨さを知っている自分達の選択が、間違っているとは言わない。事実、今も外へ出ることに迷っている者は多い。
 だが、一年前と今では、もはや状況が違い過ぎる。
「ボクらが最後の希望だというなら、こんなところに引き篭っていていいはずがないよ!」
 今は亡き学園長は、時間によって絶望が消えることを期待した。けれど、外の世界の映像を見てみれば、それが叶わぬことであったことがわかる。このまま時間の経過を待ってたところで、破滅という結末が変わることはないだろう。
 ならば、外へ出て何か変えるべきなのではないだろうか。
 苗木には特に突出した才能はない。ただ、人よりも少しだけ前向きなだけだ。今は、そのわずかな前向きさだって、世界には存在していないらしいが。
「まこちーん。所詮、私達はまだまだ若い身の上……。
 外に出たところで、なーんにもできやしねぇって」
 成り行きを見守っていただけのジェノサイダーが口を挟んできた。彼女は外の様子を断片的ながらも知っている。だからこそ、外に出ることの無意味さを口にしたのだ。
 彼女は平穏な世界に興味はない。だからこそ、ジェノサイダーが外へ出る必要がない、という言葉には重みがある。彼女がそう言ってしまえるほどに、外の世界は存在するだけで死の危険がある、ということなのだから。
「そうそう。外の空気は汚染されているぞ。
 人間の体はすぐに壊される。勿論、食べる物もない。この学園では、当たり前に享受できていたものが、何一つない世界だ」
 仲間達の空気は、さらに重くなる。
 ここまで共に生き延びてきた者同士だ。犠牲者を作りたくない気持ちはある。だが、あくまでも他人だ。失われた記憶があれば、話はまた変わってくるかもしれないが、石丸を除き、誰一人として当時の記憶を持っていない。
 気持ちが揺れるのも無理はない。
「ねぇ、こんなところで立ち止まるの?」
 静かに苗木が問いかけた。
「望んでいた外の世界も、死んでいったみんなの仇を取ることも、止めてしまうの?」
「そりゃ、外には出たかったべ!
 でも、外に出たら死ぬっつーなら話は別だべ!」
 葉隠が叫ぶ。
 人一倍生に執着している彼だ。外の世界に対する怯えもわからなくはない。
「ここにいたって、何も変わらないよ」
「あぁ。そうだ。何も変わらず、ずーっと生きていけるんだべ!」
「それは違うよ!」
 苗木の叫び声に、葉隠は言葉を返さなかった。驚いたように目を丸くし、じっと苗木を見ただけだ。
「……外の世界には、希望がある」
 この場で唯一、光を失っていない目が煌いた。
 江ノ島はその目が大嫌いだった。コロシアイ学園生活が始まってから、ずっと、ずっと嫌いだった。いや、それ以前から嫌いだったのかもしれない。同じクラスで、唯一平凡な人間で、それなのに劣等感らしいものも抱かず、真っ直ぐに生きていた苗木の目が、ずっと憎らしかった。
 彼女の嫌悪感は間違いではなかったのだ。一年前に殺しておけばよかった。そう思わずにはいられないほど、今の状況が腹立たしい。苗木という存在を消し去ってしまえば、もっと思うように事は運んだはずなのに。
 ただ、思わぬ展開も、それはそれで、絶望的ではあるのだが。
「みんなも聞いたでしょ?
 まだ希望を失っていない人がいるんだ。世界にボク達だけしか残されていないわけじゃない」
 世界はまだ、滅んでいない。
 かすかかもしれないが、希望はまだある。
「希望を信じよう!」
 外の世界でも生きていける。少し前まで想像していた未来とは、違った未来になるかもしれないが、それでも、多くの仲間が死んでいったこの場所に留まり続けるよりは、ずっとマシな未来のはずだ。
 死者は生者を縛る。しかし、生者は前へ進まなければならない。それが、どれ程苦痛であったとしても。
 生きるということは、そういうことだ。絶望に引きずりこまれ、取り込まれてしまうことではない。それだけは、確実にいえることだった。
「で、でも……。オレの占いによれば……」
 彼はいつも口癖のように、占いを口にしていた。
 それは、彼の生計を立てるための大事な商売道具というプライドもあったのだろう。同時に、彼自身、占いに頼って生きていた面があったのだ。誰だって、何かに頼って生きるのは気が楽なものだ。
 お世辞にも立派な人間とは言えない葉隠の、唯一第三者から認めてもらえた才能だ。簡単に手放すことなどできない。
「――あぁ。もうやめだ!」
 だから、これは簡単に下した決断ではない。
「もう、占いに頼るのはやめるべ!
 これからは、オレ自身の直感を信じる! それによれば、オレは外に出なきゃなんねぇ!」
 恐ろしいのだろう。足が震えていた。
 臆病な彼が、必死の思いで下した決断だ。誰にも笑わせはしない。
 苗木は頷く。彼の雄姿を忘れることはないだろう。
「みんなはどうかな。
 外を、希望を、信じてくれる?」
 周囲を見る。こればかりは強制できないことだ。苗木とて死にたくはない。しかし、みんなが安全で確実な道を選ぶことも否定はできないのだ。
「……うん。信じるよ」
 そう言って笑ったのは朝日奈だった。青ざめていた彼女の顔には、仄かな笑みさえ浮かべられている。絶望から完全に脱却したわけではなくとも、より大きな希望を見出したのだろう。
 彼女の笑みに、苗木はまだコロシアイが始まっていなかったときのことを思い出す。誰もが不安に満ちた顔をしていたが、それなりに平和で楽しい時間だった。
「さくらちゃんだって、それを望んでると思うの。
 外の世界がどうなっていても、きっと自分の足で歩け、それが真の強さだ、って!」
 疑心暗鬼を払拭するため、自らの命を絶った大神ならば言いそうなことだ。彼女は心も体も強かった。人質を取られ、絶望に屈してしまってはいたが、この場にいれば皆を鼓舞してくれていたであろうことが想像できる。
 朝日奈は、そんな大神のことを誰よりも好きだった。だからこそ、彼女の意思を継いで生きる覚悟を決めた。
「愚問だな」
 冷たくはあるが、始めて彼を知ったときよりもずっと暖かい声だ。
 十神はメガネを軽く持ち上げて苗木を見据える。その瞳に怯えや揺らぎはない。
「オレは最初に言ったはずだ。最後に黒幕を殺す、と」
 今は滅んでいるといわれても、彼は「十神家」の人間だ。敗北や挫折など許されない。無論、一度口にした宣言を撤回することもない。その結果に待ち受ける未来が、絶望であったとしてもだ。
「そもそも、オレの力を持ってすれば十神の復興など容易い。
 見ていろ。滅んだ世界の中で権力を握り、名実共に世界を統べてやる」
 不敵に笑って言ってのける。
 もしも、この言葉をその辺りの高校生が言っていたならば、失笑ものだっただろう。いつまで夢の世界で生きているのだ、と問われても仕方がない。だが、十神が言ったのならば話は別だ。
 超高校級の御曹司という肩書きを持つ彼だが、それは単純な血統によってのみつけられたものではない。彼は血統に相応しいだけの知性と行動力を持っている。時として、その行動力は人を不愉快にさせることもある。しかし、新たな世界を創造するのには必要なものともいえた。
「百夜様が外に出るなら〜私も当然外に出ます〜。
 こんなところに引き篭ってるより、ずーっと楽しそうだしねぇ!」
 十神に倣うようにしてジェノサイダーも手をあげる。彼女の意思は腐川の意思とは別物であるが、どちらも十神のことを愛していることに変わりはない。おそらくではあるが、腐川の答えも同じだろう。
「当然、私も外を選ぶわよ」
 凛とした声が苗木に向けられた。
「霧切さん……!」
 父親のことを引きあいに出され、落ち込んでいるように見えた彼女だったが、苗木に向けられている瞳に曇りはない。
「あの人が希望の生存を望んでいたとしても、私には関係のないことだもの。
 何より、本当に希望を望んでいたのだとすれば、こんなところで希望の火が消えることを願っているとは思えないわ」
 真っ直ぐな彼女の口元には笑みが浮かんでいる。
 まともに会ったこともないはずなのに、霧切は父の思いに確信を持っていた。彼女が探偵だからわかるのではない。親子だからこそ、わかるのだ。絶望に屈する希望を望むはずがない、と。
「……石丸君」
 最後の一人、石丸に苗木は目を向けた。
 この場にいる誰よりも、絶望にまみれ、生きる希望を失っているであろう彼。今はもう涙すら流していない。呆然と乾いた目で虚空を見ている。彼の意識は、すでにこの世にはないのではないかと思わされるほどだ。
「生きよう。
 きっと、みんなもそれを望んでいるよ」
 無難な言葉しか、かける言葉が見つからない。
 平凡に生きてきた苗木は、身近な人物の死を体験したことがない。当然、大切な誰かの死に自分が関わった経験もなかった。今の石丸がどのような思いを抱えているのかはわからない。ぼんやりとした想像をするのがやっとだ。
 それでも、絶望の中で死んでいって欲しくはないと思った。
「生きてここを出るんだ。
 もし、死んでいったみんなに対して、ボク達が何かできるとすれば、きっとそれだけだよ」
 死者の思いを背負って外へ出る。そして、想像もしていなかった絶望に塗れた世界を、少しでも良くする。どこまで出来るのかはわからないが、コロシアイの中で死に、殺してしまった者達に対する贖罪は、それしかない。
 法は苗木達を罰しない。他者も彼らを罰しない。
 一人一人は自分で罪を贖っていくより他にないのだ。
「……苗木君。
 大丈夫だよ。ボクは、キミに投票しない」
 掠れた声だった。
 裁判が始まってから、まだ一時間も経っていないはずだ。それなのに、石丸の声は若者のそれから老人のモノのように変化していた。
「こんなところで、安寧と暮らせるなんて……。
 何よりも絶望的だ……」
 相変わらず石丸の目は苗木を見てない。声は出ているが、本当にその声が石丸の声帯から作られているのかも怪しい。別のところにスピーカーが設置されており、そこから音声だけが出ているのだと言われても納得してしまう。
 生気の無い彼は、当に人形のようだった。
「正直ね、ボクは希望を見出すことができない」
 苗木はそっと目を閉じた。
 どれほどの言葉を弄したとしても、石丸の心に届くことはないのだろう。あるいは、届いたとしても、彼を救いあげることはできないのか。どちらにせよ、たどりつく先は同じだ。
「一年前にやってきた絶望の中でも、ボクは希望を捨てずにいられた。
 みんなが、兄弟が、いた……から」
「もう、いいよ。石丸君」
 これ以上、言葉を紡がせてはならない。苗木は石丸を止めようとする。
「兄弟はな、とても優しい人間なんだ。
 犬が好きでな、捨て犬をこっそり寮に連れ込んで怒られたこともある」
 薄ら笑いを浮かべる石丸に、江ノ島以外の人間は寒気を覚えた。およそ、まともな人間できる表情ではなかった。
 口を開かせれば、その分だけ彼から正気が零れ出ていく。
「お兄さんのことが大好きで、よく話を聞かせてもらったよ。
 チームの信念、居場所の話、男の強さ。彼はお兄さんの言葉を支えに生きていた、といっても過言ではないだろうね」
「石丸!」
 朝日奈の声も虚しく、石丸は虚ろな目をしたまま言葉を垂れ流しにしていく。
「甘い物が好きで、文化祭ではわたあめを作ろうと言っていたんだ。
 ボクはてっきり、兄弟が女子生徒にモテたいがために言い出したんだと思ってしまったよ。
 少しばかり、モヤモヤしたことを覚えている。校則で禁止されていないとはいえ、不純異性交遊は褒められた行為ではなかったからだろうか。
 兄弟は何度注意しても、暴走をやめてくれなかったな。一度、集会とやらに連れていってもらったことがある。思っていたよりも、皆良い人達だった。ボクは自分が思っている以上に、偏見に満ちていたのだと思わされた一件だった。
 ボク達は魂で繋がった兄弟なのだと、思っていた。兄弟から、実の兄の話を聞かされて、やはり血の繋がりには勝てないのだとも思った。しかし、今を生きている兄弟を支えられるのは、同じように生きている自分だけなのだと。そう思えば、少し、酷い話だが、嬉しくもあった。
 抱えているものをボクにだけ吐き出してくれたんだ。兄弟は、それほどボクのことを信じてくれていた。だから、ボクも兄弟を信じて、ずっと共に、そうだ、生き延びて、支えあって、それで、それなのに……」
 そこで石丸の言葉は終わった。
 涙するでもなく、絶叫するでもなく、ただ静かに口を閉じた。
「……最高!」
 異様な空気の中、江ノ島が歓喜の声をあげた。
「最高! 最高だよ! みんな!
 今から、みんなは私に投票するんでしょ? そして、私は死ぬ。
 あぁ。なんて絶望的。それも、級友のこんな、絶望的で悲惨な姿を目にしてから死ねるなんて!」
 映像を通して聞いた江ノ島と同じ声だ。今までのキャラが嘘であったとは思えないが、もっとも本質に近いものが今のキャラなのだろう。歓喜のあまり、口から涎が垂れているのが見える。
 衝動的にわきあがってきたのは、強い嫌悪感だった。
 理解できる、できないの範疇を越えている。
「さあ! みんな!
 お待ちかねの、投票タイムだよー!」
 手元のスイッチが光る。投票の受付が開始した合図だ。
 一度だけ、石丸を除いた皆が目をあわせ、頷いた。
 軽い音がして、スイッチが押し込まれる。

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