地獄というのは、話に聞くよりもずっと苦痛に満ちた場所だった。元々、地獄について知識が深いわけでない人間でもそう思える。実際は文献などに残っているようなことばかりなのかもしれないが、話しに聞くのと実際にされるのとではわけが違う。無論、そうでなければ罪を犯した者共が落ちる意味がなくなってしまうので、至極当然の苛烈さではあるのだけれど。
 そこでは、大の男からまだ幼い子供に見える者まで、断末魔の叫びと解放を願う雄たけびは消えない。そんな声がまた、周囲を陰鬱とさせ、精神的にも消耗してくる。地獄にいる者の中には、すっかり精神を削ぎ落されてしまい、何も叫ばず何も呻かず、ただ黙って痛みを受けているだけの者もいる。
 誰もがいつかはそうなるのだろう。そうして、ようやっと終わりがくるのだろう。その認識がまた人を病ませる。どこまで行っても悪循環でしかない環境だ。
「――あ、に……き」
 そんな中、磔にされている一人の男が呻く。
 助けを求める声ではない。謝罪を込めながらも、その言葉を飲み込むことしかできない者の言葉の欠片だ。口にすることで救われるわけでもなく、ただ己が気持ちのままに吐露するばかり。意識せずに吐き出されるその声と言葉は、習慣のように彼の口に根付いている。もしも彼が眠れるとして、言葉は寝言として吐き出され続けるのだろう。
 彼、大和田紋土が地獄へ落ちてきて、どれ程の時間が経っただろうか。朝も夜もなく、食事が出てくることもない現状では時間などというものは何の役にもたたない。精神的な疲労と合わさり、不要でしかないものはあっさりと手放されたのだ。
 ずっと長い間ここにいるような気もしたし、まだ数日しか経っていないような気もする。
 四六時中、どのような状況であろうとも絶え間なく与えられる苦しみだけが大和田の世界だ。残酷な世界と苦痛は己にピッタリだと大和田は自虐的に思う。だが、自身を嗤うことはできない。意地を張ってみたところで、痛いものは痛く、苦しいものは苦しいのだ。それこそ、口角をわずかにあげることすらできない程に。
 日本最大とまで言われた暴走族の総長であり、人類の希望として扱われていた彼も所詮はただの高校生だ。永劫に続けられる罰を前にして気丈でいられるはずもない。ギリギリのところで喚かずにいられるのは、自身の中にある感情のおかげだ。
 体の骨という骨を砕いてしまいそうな程に重い罪悪感と、胸の内で燃え盛っている自分への憎しみ。これらがなければ、今頃はみっともなく泣き叫び、魂からの消滅を望んでいたに違いない。
 罪悪感が、憎しみが、彼の死を赦さない。それ故に、彼は今も血を吐きながら、己が殺してしまった人達を呼ぶ。
 届くはずがないから、謝罪することも許されていないから。それしか言葉を知らないかのように口から零し続ける。それは、もしかすると願いだったのかもしれない。せめて、天国と呼ばれているところにいるであろう人の傍らには、永遠に安息と幸福があるように。
「ぐっ……あぁ、ふじ、さ」
 呻き声と名前が吐き出される。
 大和田の背中から鉄の棒がゆっくりと挿入された。鋭い先端が皮膚を突き破り、徐々に肉を掻き分けていく。喉を悲鳴で焼いてしまうほどの痛みはない。ただ、ゆっくりと肉が切れていく感覚はどうにも苦しい。一瞬で終わるような痛みでは贖罪にならぬ。慣らすような速度では生温すぎる。その中間、絶妙な速度を保って棒は進んでいく。
「きょ……う、だ……ぃ」
 絶望に顔を染め上げ、大和田は自身の腹を見る。しばらくすれば、そこから棒が突き出してくるはずだ。背後から挿入されている痛みが前面へと迫ってくるのが感じられる。
 痛みと恐怖。それがこれからもずっと続くのだという絶望。
 目からは無意識のうちに涙が流れていた。息は荒くなり、体が揺れ、串刺しにされている部分が酷く痛む。
「あぁ……あに、き」
 嫌だと叫びたい。
 だが許されない。
 大和田は持ちうる全ての言葉を、他者を呼ぶものへと変化させてしまっている。懇願するような顔で、誰かを呼ぶ。しかし、その人から手を差し伸べられることは期待していない。
 不安気な彼を放置して、棒はペースを崩さない。ゆるやかな速度のそれは、ようやく内臓にまで達した。いっそうの痛みが大和田を襲い、一瞬だけ彼は全ての言葉を失う。
 内臓を破っても棒は止まらない。そのままゆっくりと、身を引きずるようにして深く深く刺されていく。紋土は口から血を吐き、痛みに呻きながらどうにか口を動かす。しかし、そこから出るのは意味をなすようなものではなく、ただの息だけだ。
 言葉を発しようとすると腹に力が入ってしまい、突き刺さる棒によって痛みが引き出される。それでも、彼は言葉を吐くこうとすることを止めない。そもそも、止めるという発想がない。例え、言葉が外へ出ていなくても構わない。口にしようとする意思が大切なのだ。
 そうして、ついには棒が反対側から飛び出した。
「――――!」
 大きな悲鳴が上がるが、地獄では誰もそれを気にとめない。何せ、悲鳴などひっきりなしに上がっているのだ。誰がわざわざ一人に注目するものか。大和田の悲鳴など、場を構成する音の一つでしかありえない。
 吐き出される血や吐瀉物も同じようなもの。眉を寄せる者すらおらず、大和田は定まらぬ視界で己から出たものを見つめる。
「ふ、じ……」
 喉が鳴る。吐瀉物が喉を焼いたのだ。
 無理矢理に言葉を出そうとするが、どうにも上手くいなかい。そもそも、背中から腹にかけて鉄の棒が貫通しているのだ。常識的に考えればまともに言葉をつむげるはずがないということくらいわかる。
 弱い、と大和田は自身を思った。
 ずっと強くありたいと、あらなければならないと思っていた。だが、現実の己はとてつもなく弱い存在だ。
「――グアッ!」
 油断していたところに、もう新たな棒が体に突き刺さる。今度のものは瞬間的な痛みだった。じくじくと貫通した場所を苛む。
 悲鳴や呻き声なら上がるというのに、自分の言いたい言葉は少しも出やしない。こんなところが弱いのだ。大和田は青い顔をしてまた涙を流す。ボロボロと涙を流すのは己ではなく、兄弟と呼んだあの風紀委員の役目だったはずなのに。自分を弱いと責め立てるのは、あの女のような顔をした強い男だったはずなのに。
 朦朧とする意識の中で、大和田は彼らの顔を思い出していた。
 実の兄が笑う顔。兄弟と呼んだ男の怒る顔。性を隠していた男の泣く顔。
 消したのは全て自分だ。
 大和田の体を一本、二本、三本と新たな棒が貫く。その度に喉を潰すような悲鳴をあげる。意識を飛ばしている暇さえありはしないのだ。
 痛みが全身に伝わり、脳がそれを理解した頃、彼の四肢を地獄の者が掴む。
 ろくに動かすことさえしない頭が、これから四肢をもぎ取られるのだと教えてくれた。どうせ間を置けば再生してしまう身だ。引き千切られようと炙られようと、その時に苦痛があるということ以外は問題ない。
 四肢のつけ根の皮膚が悲鳴をあげ、肉の繊維がバラバラになっていく。だらしのない達磨になるのも時間の問題だ。
 もう死んでいるというのに、死にたくないと、壊れたくないと願ってしまう。いかに無駄で、いかに身勝手な願いだと知りつつも、わきでる感情を押さえ込むことはできない。
「残姉ちゃんみてーじゃん!」
 掠れた悲鳴が上がる手前、地獄において浮いているとしか表現のしようがない明るい声が聞こえた。しかも、どこか聞き覚えのあるものだ。
 正面を向くことすら辛い首をどうにか動かし、声のした方を見る。
「あの……。大和田君……。私も、死んじゃったんですよ……。
 とても、素敵な絶望でしたが……。また、こうして絶望できて、とても嬉しい、です」
 声の主を目に映し、大和田はこの地獄にきてから始めてしたのではないかと思う表情をした。つまりは、困惑とドン引きが融合した、奇妙で、しかし気持ちは痛い程にわかるものだ。事実、彼の周囲で四肢をもぎ取るべく働いていた者達も似たような顔をしている。
「あの〜。ところでぇー。大和田君にぃ、聞きたいことがあるんです!」
 ころころとキャラが変わる彼女は、江ノ島に間違いないはずだ。ただ、その姿は壮絶という言葉が相応しいものだった。
 半分砕けた顔面に、臓物が地面にまで垂れて引きずられている。その上、体には数百という針が刺されており、見ているだけで痛々しい。そんな状況でも平然と笑っていられるのは、彼女が超高校級の絶望の一員だからに他ならない。だが、ゲーム開始後、割りと早い時期にリタイアし、尚且つ頭の回転がよろしくない大和田が、黒幕と彼女をイコールで結べるはずもない。彼の記憶の中にいる江ノ島は超高校級のギャルであり、自身のクラスメイトだ。絶望の一員として働いていることは巧妙に隠されていたため、大和田の脳内には疑問符が大量に浮かんでいた。
「な、んで……」
 彼の中で、江ノ島は黒幕に殺された存在だ。
 間違っても地獄へ落ちるような者ではなかったはず。彼女が他者を殺す暇などなかったはずなのだ。
 久々に吐いた呼称以外の言葉は弱々しく、風でも吹いていればあっという間に消えそうなものだった。
「気づいていらっしゃらないようなので説明します。
 私は超高校級の絶望であり、あなた方の記憶を奪い、殺しあいをさせた黒幕です」
 大和田が目を見開くと、江ノ島のキャラが変わる。
「というわけで、こうして地獄にやってきたというわけよ!
 ここならずっと絶望していられる。私様はこの絶望にカイカンを覚えているわ!」
 半分がない顔で江ノ島は楽しげに笑う。その度に血が飛び散るが、彼女は欠片も気にしていないようだ。
 響く笑い声に、大和田が動く。串刺しになっているような状況ではまともに動くことはできず、彼の傷口がわずかに広がったばかりであったが、動きを止めることはなかった。震える腕を江ノ島へと伸ばし、胸倉を掴みあげようとする。
「憎いかい?
 全ては黒幕の責任、って。だが、それは酷い責任転換というもんだぜ?」
 江ノ島は大和田の腕を握り、潰さんばかりの力を込める。
「だぁーってよぉ!
 殺したのはお前! お前が! 自分の意思で! 殺っちゃったんだろぉ!?」
 大和田の瞳に暗い色が差す。
 絶望と苦しみの色に、江ノ島は片目を細める。
「ですので、私を責めるのはお門違いというものですよ。
 全ては自己責任。貴方のお兄様が亡くなられたのも、不二咲千尋が死んだのも、石丸清多夏の精神が崩壊したのも」
 とうとう大和田の腕から力が抜け、重力のようなものに従ってだらりと垂れる。
「ぜーんぶ、大和田君のせいなんだよ!」
「オ、オレは……」
「強い、んですよね……?」
 違う、と否定の言葉は出なかった。その前に江ノ島が大和田に突き刺さっている棒を無造作に動かしたのだ。
「がああっ!」
「これなら、アタシがしてやったオシオキの方が苦しかったんじゃねーの?
 どうだった? とろっとろのバターになる気分はよぉ!」
 突き刺さるような笑いと共に棒が抜き差しされる。その度、大和田が悲鳴をあげるが、地獄の者共は眺めているだけだ。彼らとしては、己がするべき仕事を他の亡者がやってくれている、という感覚でしかないのかもしれない。
 思う存分に痛めつけ、大和田の喉から悲鳴すら上がらなくなった頃、ようやく江ノ島は棒から手を離した。
「それで、一つ聞きたいことがあります。
 つまり、今の貴方と同じような状況になって死んだ江ノ島……戦場むくろを知らないか、ということです」
 上品な口調で言った江ノ島を緩慢な動作で大和田は見上げる。涙で視界がぼやけ、喉や体中が痛むような状況では、正直なところ黒幕の姿なんぞ見たくもなかったが、彼女が姉の名前を口にしたのが気になった。
「残念なお姉ちゃん、でしたが、あの人も、たくさん人を殺しました。
 きっと……地獄に、いるはず……。
 でも、会えていないんです……。お姉ちゃんがいれば、もっと絶望的な、ことができるはずなのに……」
 大和田はきょとり、と眼球を動かし、手の先を軽く振る。
 知らない、という意思表示だった。
「そうですかぁ。なら、しっかたないですねぇー。
 じゃあ、地獄ライフを楽しみましょうねぇ!」
 最後にやたら高いテンションで江ノ島は去って行く。大和田の意思表示は紛うことなく伝わったようだ。
 去り行く江ノ島の背中を眺め、大和田は嘆息する。
 どうやら、あれが彼女に課せられた罰らしい。
「――盾子ちゃん」
 むくろが声をあげる。しかし、江ノ島は気づかない。
 先ほどからむくろの影はずっとあった。知らなかったのは江ノ島だけだ。そして、それはこれからも続くのだろう。
「お姉ちゃーん」
 江ノ島が遠くで姉を呼んでいる。むくろはそれに返事をしているのだが、やはり江ノ島が気づく気配はない。
 誰もそれを意識したことはなかったが、江ノ島は姉のことを一応愛していたのだろう。永遠に姉と会うことができない、ということが地獄での罰になる程度には。
「……兄弟」
 大和田は呟く。
 同時に、四肢が引き裂かれた。
 声はもう出ない。苦痛に顔が歪むだけだ。
 江ノ島の罰が会えないことであるならば、きっと大和田もそうなのだろう。肉体的な苦痛以上に、兄弟達と一生会えないことが、謝罪することさえできないことが、彼への罰だ。
 涙が一筋零れる。
 生理的なものではない。単純に、悲しみから溢れた涙だった。

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