セネルは平和になった世界を満喫していた。つい先日までは、シャーリィが外交官として働いているのを心配しつつも見守っていたり、黒い霧によって魔物が凶暴化していたりと、いまひとつ心安らぐ時間というものが確保できていなかった。
黒い霧に関しては、仲間が一人消えてしまったことを除けば万事解決した。シャーリィに関しても、水の民にも陸の民にも新たな友達を作り、外交官としても一人で立派にやっている。いつまでも心配して見守っていなければならないような彼女ではない。
嬉しい反面、兄としては少し寂しくもある。
そんな彼は、現在、山賊のアジトへと足を運ぶべく橋へ向かって歩いているところだ。いつになく真剣な顔をしているセネルに、街の人々は挨拶をすることができないでいた。
街に順応してしまう程度には灯台付近に居座っていた山賊であったが、魔物の沈静化に伴い再びアジトへと身を置いた。以前のような盗賊行為はセネルやウィルの耳に届いていない。時折、セネル達に会いにやってくるモーゼス曰く、狩猟生活をしつつ、気が向けばウェルテスや遺跡船の外から来た人の依頼を聞いてやって生計をたてているようだ。大勢の部下を養うために盗賊行為をしていたものの、彼らの狩りの腕は相当だ。幾多の戦いを乗り越え、以前よりもずっと強くなったモーゼスが傍にいる今、彼らは狩猟だけでも十二分に生活できているのだろう。依頼を請け負っているのは、ウェルテスに住んでいる家族達への手助けのつもりなのだ。
今回、セネルが山賊のアジトへ向かっているのは、彼らの狩猟であるモーゼスに関することだった。平和に身を委ね、肉体的にも精神的にも満たされると、今まで見えていなかったものが見えてくるものだ。それは彼も例外ではなく、平和を満喫しているとき、ふと思うことができてしまった。
モーゼスや、彼の部下が口にしなかったことだ。下手に首を突っ込んでいい問題ではないのかもしれない。セネルとて、一度はそう思い、疑問を心の奥に沈めた。しかし、気になるものは気になる。こういった言い方をするのは卑怯だろうけれど、それが「家族」のこととなればなおさらだ。セネルは自分の心を偽ることを止めた。
掛け橋のすぐ傍にあるダクトの所にまでやってきて、セネルは小さく笑った。
以前の自分ならば、こんなことはなかっただろう。ひたすらにシャーリィを守っていただけの頃、他人などどうでもよかった。それが、今では気になってしかたがない、などという理由で動いている。
変わったことに嫌悪感はない。むしろ、嬉しく思う。暖かい気持ちを胸に、セネルは一歩を踏み出した。時空が歪み、ダクトからダクトへと転送される感覚を味わったかと思うと、目の前の景色が変わっていた。
始めてきたときと変わりのない光景だ。アジトを修理するついでに、雰囲気を変えようなどとは微塵も思わなかったのだろうか。
「あれ? セネルさんじゃないですか」
入り口の辺りで魔獣と戯れていた男が声をあげた。モーゼスの部下の一人だ。彼も魔獣使いとして、まだ幼い魔獣ではあったが、立派なパートナーを見つけている。
「兄貴なら留守っすよ」
「あぁ。知ってる」
セネルが答えると、部下は不思議そうな顔をした。モーゼスに用事があるわけでないのならば、山賊のアジトにまで足を運ぶ理由がないことを彼はよくわかっている。面識も、交流もあるが、訪ねてくるような用事があるのはモーゼスに対してだけだ。
「今日はチャバに用があってさ」
いくら気になるとはいっても、モーゼス本人に疑問をぶつけることができなかった。
故に、セネルはモーゼスに最も近く、部下達の中でも交流の深い人物を訪ねることにしたのだ。ちなみに、モーゼスのいない日を狙うために、セネルはジェイから情報を買っていたりする。
「そうなんすか。それじゃ、ちょっと呼んでくるんで、待っててください!」
普通の人が見れば、セネルの行動は少しばかり怪しい。警戒したとしても、責めれられはしないだろう。しかし、そこはモーゼスの部下だ。セネルを疑うことなどしない。特に問い詰めることもせず、アジトの中へ駆けていく。中に通されなかったのは、彼らのアジトに客室などという概念がないからに過ぎない。
セネルはそれ程急がなくてもいい、と中へ消えていく背中へ声をかけ、その場に留まった。
本人に聞かずに第三者から答えを求めるという方法に、わずかな罪悪感はあった。それに加え、もはや退くことはできないという状況ができあがってしまったことで、セネルの心臓は不安定にざわつく。
「お久しぶりです」
少しして、緑髪の男が姿を現した。
「元気そうだな」
挨拶代わりの言葉だ。
チャバは近くの木の方へとセネルを手招いた。彼は山賊の中では頭の回る方だ。わざわざモーゼスのいない時を見計らってやってきたらしいセネルに、何か思うところがあったのだろう。誰が聞いているかわからないアジト前よりは、少し離れた場所でと踏んだに違いない。
セネルとしては、チャバのそうした行動は有り難いものだった。あまり大勢に聞かれたい話でもない。
「今日はどうしたんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあってな」
聞かれて困るようなことはないとばかりに、チャバはセネルを真っ直ぐ見る。山賊という職業柄、なんらかの冤罪にかけられている可能性を危惧したのだ。セネルは彼の心配を払うように言葉を続けた。
「以前、モーゼスが部族を追われたときの話をしてくれただろ?」
ギートの魔獣化が問題になったときのことだ。チャバの中でも、あの一件は深く胸に刻まれている。彼が少し眉を寄せたのは、モーゼスの内に隠された悲しみを知っているからだ。
「あの時、オレは当然のように、モーゼスはギートを選んだに違いないと思った」
それだけセネル達は彼らの絆を目にしていた。水の民と陸の民が手を取り合うと決まったとき、真っ先にモーゼスとギートの絆を思い浮かべた程だ。彼らのように、姿形も言葉も違う存在が共に生きている。似た姿をし、今では同じ言葉を扱う種族が手を取り合えないはずがない、と。
だからこそ、セネルはモーゼスがギートと部族を天秤にかけることさえしないだろうと思った。
「でも、今になって思うんだ。
あれだけ「家族」を大切にしてるあいつが、血の繋がった家族を、同じ部族の仲間を、簡単に捨てられるのかって」
もしも、ギートか山賊達か、もしくはセネル達か。どれかを選択しろと言われたとして、モーゼスは簡単に割り切れるのか。
答えはわかりきっている。そんなはずがないのだ。
ギートが山賊達を傷つけたとき、モーゼスは悲痛な顔をしていた。「家族」を手にかけた「家族」を討たなければならないことを嘆いていた。二つの家族に挟まれ、苦悩していた。
比較対象が部族であったとしても、それは同じだったのではないか。
セネルはそれ以上何も言わなかった。黙ってチャバを見ていた。
「……兄貴が言っていないことを、オイラがほいほい教えることはできません」
チャバは目を伏せて答えた。
「そうか」
残念ではあったが、そう言われることも想定していた。卑怯なことをしている自覚もあった。セネルはチャバの言葉に苛立つことなく、むしろ、これで踏ん切りをつけて、本人に聞くことができそうな気さえしていた。
穏やかな笑みを浮かべ、チャバの肩を軽く叩く。
「邪魔して悪かったな」
次はモーゼスに会いにこよう。セネルはそう決意し、チャバに背を向けた。
「ただ――」
消え入りそうな声だった。
セネルは足を止める。
「兄貴は本当に、ギートと部族を秤にかけなかった」
「……そうか」
つまり、モーゼスにとって、本当の家族は「家族」でなかったということだ。
セネルはむしょうに、あの馬鹿面を見たくなった。辛いことも、悲しいことも、飲み込んで笑えるあの強い笑みを見たくなった。
後編