近頃、どうにもおかしい。
レオナルドがそのことを明確に感じ取ったのは、とある週の日曜日。その週に入って五度目になる、留守番を任されたときのことだった。
永遠の証明書
まず、その週が始まったばかりの月曜日。
異界と混ざり合い、おおよそ人間の常識とはかけ離れた場所にあるこのHLだが、それでも無情に月曜日というものはやってくるし、それは人を、また異界の生物を憂鬱な気持ちにさせる。
そんな中、レオナルドは憂鬱に絡め取られることもなく、平凡に過ごしていた。
曜日の概念など何処かに放り出しているような秘密結社に属し、給金を貰っている彼だが、組織には決まった休みがない代わりに決まった出勤日もない。何か起こったとき、それが出勤日だ。故に、仕事始めを憂鬱に思う必要もないのだ。
普段、妹のミシェーラへの仕送りのためにも、とバイトをしているが、こちらも定休なんぞ存在していない。付け加えるのであれば、この日はバイトも休みだった。
ライブラのメンバーとして世界の危機に首を突っ込んでいるときでなければ、レオナルドは極普通の人間といってよかった。休日は友人と過ごしてみたり、同僚と過ごしてみたり、はたまた食料を買い込みにスーパーへ行ったり、というのが殆どだ。
HLという場所柄、命の危機や争いに巻き込まれたり、ということも多々あるのだが、そんなものは日常の範囲内の話でしかない。
今日は何をしようか、そんな風に家でのんびりと考えていたら、突如として、部屋の扉が開かれた。無論、施錠はしっかりしてあったはずの扉だ。
「なっ!」
強盗か、ライブラの情報を狙った連中か、神々の義眼狙いか、とレオナルドの脳に様々な可能性がよぎり、事と次第によっては視界をシャッフルしてやらねば、と薄く目を開く。
だが、驚愕の後、彼の青い目に映ったのは想像していたどれとも違う人物だった。
「よぉ、今日はお休みなんだって?
陰毛ドチビ君!」
輝かしい銀糸の髪と褐色の肌。すらっとした長い足で扉を蹴り開けてくれた男がすこぶる機嫌の良い声で言ってきた。
彼の名はザップ・レンフロ。
認めたくはないが、レオナルドの同僚であり先輩だ。
「…………何の用っすか。ザップさん」
眉間にしわを刻みこみ、レオナルドは低い声で尋ねる。
シルバー・シット、というあだ名の通り、ザップはクソのような性格をした男だ。女遊びから腹を刺されるなど可愛いもので、ライブラのリーダーを騙すことからカツアゲまでやってのけ、世界の均衡を保つという目的のある組織に属しているとは思えぬ程に悪事に奔放な男。戦うことに関する才能だけは誰もが認めるところではあるが、内面に関しては認めている人間など存在していない。
性根まで腐りきっているわけではなく、存外、面倒見が良いことも知っていたとしても、表面上の部分がクソすぎるのだ。あのクラウスに問うたとしても、ザップの素行に関して全肯定は返ってこないに違いない。
ザップのことだ、部屋の鍵は自慢の斗流血法でピッキングでもしてのけたのだろう。彼はレオナルドと違い、自身の能力を積極的に日常生活でも使用している。
休日の朝っぱらから、そのような男が登場したのだ。レオナルドの機嫌が急降下するのも無理のない話だといえた。
「どーせ、休みったって女と会う約束の一つもないんだろ?
なら、童貞は童貞らしく、先輩に付き合えつってんの」
「童貞とアンタに付き合うことは何の関係もないんですけど。
むしろ、人を童貞童貞言う人と休みの日まで付き合いたくないんですけど」
長い足を主張するかのように大股で近づいてきたザップへ、レオナルドはいつも通りの糸目で返す。声には呆れが大量に含まれていたが、そんなことを気にするシルバー・シットではない。
「うっせぇなぁ。お前もライブラの一員なんだ。
たまには基地に来て仕事しやがれ」
「それアンタだけには言われたくない。本当に。マジで」
ライブラには様々な人間がいるが、その中で一等働いていないのは間違いなく目の前にいる男だ。他の面々は情報収集や人員の確保、調査や監視、武器の調達に至るまで様々な仕事をしている。例え、基地で優雅に紅茶を飲んでいるだけに見えたとしても、その裏では様々な仕事をしているに違いない、とレオナルドは確信していた。
実際、基地を本拠地としているツェッドなどからは、スティーブンの仕事っぷりや、クラウスの書類仕事を手伝った、というような話を聞いている。
それに比べ、ザップはどうだ。
不本意ではあるが、レオナルドは仲間内で誰と過ごす時間が最も長いか、と問われれば、ザップである、としか答えようがないくらい、彼と共に過ごしている。それは、ザップの仕事の一つにレオナルドの警護が入っているからなのだが、有事の場合を除けば彼の存在をレオナルドは必要としてない。
それどころか、邪魔である、と感じることさえ幾度となくあるのだ。
町を歩けばザップの喧嘩に巻き込まれ、バイトをしていれば彼の女に絡まれる。
このような状態を見て、ザップは警護の仕事をこなしている、と言える者はいるのか。いるのならば、レオナルドの前に出てきて欲しい。思う存分視界をシャッフルしてやる所存だ。
「何言ってんだ。
オレは殆ど毎日ライブラに顔出してるぞ」
「それ、お金がないからですよね。
女の人やおっかない人に追いかけられてるからですよね」
ライブラの基地は安全な場所だ。
チェインに踏みつけられたり、ツェッドと喧嘩したり、クラウスに襲い掛かり返り討ちにあったりしていたとしても、命の危険はない。しかも、ギルベルト手製の菓子や紅茶まで出てくるのだから、至れり尽くせりといえる。
給金として支給される金を瞬時に溶かしてしまうザップには楽園のような場所だろう。毎日顔を出すのも殊勝な心がけなどではない。絶対に。
「オレのことはどーでもいいんだよ。
お前だよ、お前」
ザップは男らしく太い指をレオナルドの鼻先に向ける。
「情報なんざ、一分一秒で変化するもんだ。
肝心なときにその場にいなけりゃ、取り逃すモンだってある」
向けられた瞳はやけに真剣で、いつも淀んでいる色が透き通って見えた。こんな瞳は、戦闘の最中にしか見ることができないずで、こんな日常の中で見せられるとどうにも背筋が粟立つ。
同時に、ザップの言っていることをレオナルドは心の内で肯定してしまった。
彼の言うとおり、情報は鮮度が命だ。後々に知っていては後手に回ることしかできない。それでは困るのだ。レオナルドは趣味や伊達酔狂で秘密結社に属しているわけではない。彼は情報を求めてこの組織に、この町に、きた。
足の不自由な、そして、レオナルドの臆病さによって視力までもを失ったミシェーラ。彼女に全てを返すために彼はここにいる。
元々の目的を忘れていたわけではない。
自分の罪と無力さを思い返し涙したのは、つい最近のことだ。この町に来てから毎夜、眠る前にはミシェーラがいるであろう方向に謝罪を口にしている。
ただ、吸血鬼という強大な存在や、人知を超えた事件が毎日起こるこの町に居つき、馴染んでしまったがために、感覚が鈍ってしまっていたことを強く否定はできなかった。
必死さが足りない。自分の犯した罪に見合うだけの、負うべき苦しみを得れるくらいの、もがき方足掻き方をしていない。
HLに来た当初は、ミシェーラのこと以外考えられなかったというのに、今では友人のことや日々の楽しみまで考えてしまっている。少しずつ情報を集めてはいる。信頼のおける人間に神々の義眼について尋ねてみることもある。そうして得られた情報も価値あるものだ。しかし、それでは遅すぎる。もう、HLにきてどれくらいの時間が経ったのか。得られた情報は、結局のところ、神々の義眼をどうこうするのは殆ど不可能だろう、という絶望的なもの。
あの動かない足へ施す治療でさえ、最良のものが見つからずにいる。
ザップに気づかされたのは癪だったが、感謝しなければならないだろう。
ライブラの仲間のために神々の義眼を使うことに躊躇はない。だが、我が侭を言っていいのならば、それは一番であってはならないのだ。レオナルドの一番は、いつでも妹でなければならない。
気丈な妹。言葉を発した彼女。視界を失ったミシェーラ。
どうしてあの子ばかりが、苦しみを受けなければならないのか。
「……わかりましたよ」
渋々、という体でレオナルドは重い腰を上げた。
「よーし。素直が一番だ。
んじゃ、朝飯でも買ってくか」
「奢りませんからね」
「んだよ、ケチくせーなぁ」
そんな風に言葉のやりとりを続けながら、レオナルドは自然とザップのバイクにまたがる。続くようにして前に乗った彼の細い腰を掴む。
レオナルドも自分のバイクを持っているのだが、ガソリンもタダではない。目的地が同じならば、相手のバイクに乗ることは何らおかしなことではない。その時々でザップがレオナルドの後ろに乗ることもあるのだから、同等の関係を保っている。
ふと、レオナルドは風を体に受けながら、今日は後ろか、と思った。
しかし、そんな考えは背後から聞こえてきた爆音であっさりと消し飛んでしまう。
「何か爆発しましたよ」
「ほっとけ。どっかの馬鹿がやらかしただけだ」
轟音に驚きはするものの、レオナルドも今やHLの住人だ。たかだか爆発で取り乱すようなマネはしない。外の世界で言うところの、急に雨が降ってきましたね、洗濯物取り込まないと、という程度の日常会話になるだけだ。
「ザップ。丁度いいところにきたな」
秘密のルートをたどってやってきたライブラ基地内は、既に騒がしい様相を見せていた。この広いHLの何処かで世界の危機に関連するやもしれない事件が起こったのだろう。危ういことではあるが、珍しいことではない。
「出動っすか」
ザップが問うと、スティーブンは無言で頷く。その口角は上がっていたので、血界の眷属関連ではなさそうだ。ライブラの頭脳を司る彼ではあるが、スリルという言葉には甘美な感情を寄せずにはいられないらしい。
戦闘特化のザップも軽く舌なめずりをしてみせた。
あくまでもサポート型でしかないレオナルドからしてみれば、この人も本当に好きだな、と呆れることしかできない。強いて他の感情をあげるならば、今回は入院せずに終わればいい、という己の体に対する希望だ。
町のチンピラ程度を相手どるならともかく、ザップ達が向かっていくような相手に対する手段などレオナルドは有していない。
「お前は留守番しとけ!」
その言葉に、レオナルドの時間が止まる。
「――え?」
疑問符を浮かべる頃には、声を発した相手の姿はなく、ギルベルトと共に基地に残された己の身があるばかり。
違和感。
「レオナルド様、お茶をお淹れしましょう」
「え、あ、あぁ、ありがとうございます」
いつも通りの笑みを浮かべてうれたギルベルトに、レオナルドはわずかな安堵を抱く。
これは日常の一つだ。おかしなところなど何もない。そうだ、たまにはこんな日があってもいいではないか。怪我の心配をする必要もないような、平和な一日。そのことに驚くなんてどうかしている。
「何かボクにできることってありますか?」
丁度いい温度、時間で淹れられた紅茶は極上だ。
暖かな飲み物を口に含み、喉を潤しながらレオナルドは手伝いを申し出る。せっかくライブラまできたのだ。何かしらの仕事をしておきたい。
「それでは、二、三お願いいたしましょうか」
結局、その日はギルベルトの手伝いをするだけで終わった。しばらくしてから多少服を汚した面々が帰ってきただけで、他は特に目立ったこともなく、雑談や食事で一日が過ぎる。それなりに良い一日だった。
→