ザップがギッドロの呪詛にかかってから早くも一ヶ月が経過した。血流によって血管が炎症を起こし、傷つけられていくその呪いは、彼に多大なダメージを与える。
やせ我慢も限界に達し、動くことができなくなるまで三日。ベッドの上で体をピクリとも動かさず、ひたすらに呻き声をあげ続けるザップの姿はあまりにも哀れで、悲しく、チェインですら彼に軽口を叩けなくなっていた。
呻くザップの顔を見つめる彼女の黒い瞳は、迷子になってしまった子供のように揺れていた。
「……絶対、解けますよね、呪い」
レオナルドは震えた声で呟く。
誰か、特定の人間に向けられたものではない。ただ、口にせずにはいられなかった。
ピザを強奪してくるような傍若無人なザップが、自身の血を用いて戦場を駆けるあの戦士が、ベッドの上で動くこともできずに静止している。
夢か幻か。そうでなければ性質の悪い冗談か。そのどれでもよかった。
ただ、これが現実でないならば、何でもよかった。
「仲間を見捨てるようなマネはしない」
クラウスの重鎮な声が響く。だが、それは解呪を確約するものではない。
彼もわかっているのだ。呪いとは、そう簡単に解けるものではないことを。自分達の手だけではどうにもできないことを。だから、クラウスは、歯を食いしばり、見るものを圧で潰してしまうほどに後悔と懺悔と希望を混ぜ合わせている。
信念に誓うことは容易いことではない。決めたからには果たさなければならない。クラウスはいつも、その覚悟と、一種の確信を持って自身に誓いをたてる。
故に、今は誓うことができない。呪いについてクラウスは多くを知らない。彼の手の範疇にない。覚悟はできても確信ができない。クラウスの誓いという気休めを安易にザップに向けてはいけない。
もどかしい。
その一言につきる。
だが、たとえ、ザップがどのような状態になろうとも、放り出すつもりだけは一片たりともなかった。それだけが、今のクラウスにできるただ一つの誓いだ。
「そっちの状態はどうだ?
あぁ、うん。わかってる。だから、そっちも何か情報が出たら……。
そうだな。うん、うん。わかってるよ。でも、ボクの気持ちもわかってほしい」
誰もが呪いを解く方法を探していた。一刻も早くギッドロから解呪の方法を吐き出させてくれ、という懇願を電話越しに投げる声が基地内に反響する。いっそのこと、あの男が逃げ出したあの日、あの時に、殺していればよかった、と誰もが一度は考え、それを打ち消す。
生け捕りを選んだのはザップだ。ライブラのため、牙刈りの末端として、彼は正しい判断を下した。それを無に帰すような考えは戦士に対する冒涜だ。
ありとあらゆる解呪の方法を試してみること一週間。未知の生物を丸呑みさせ、針を刺し、薬を浴びせ、呪文で対抗する。ライブラの持てる力を全て使った。しかし、それが喜ばしい効力を発揮することは、一度としてなかった。それどころか、ザップをよりいっそう苦しめる結果に終わったことさえある。
「――――――!」
声にならぬ悲鳴が地下に染み渡る。もう、何度聞いた声なのだろうか。
「すみません。やはり、私の力では……」
「そうかい。すまないね。ありがとう」
何も変わらぬ現状に絶望し、さらなる悲鳴を上げる彼にライブラの面々は顔を歪めるばかり。だが、どれだけ胸を痛めたところで、彼らにはできることが何一つとしてなかった。
解呪に長けた者は誰一人としてこの場にいないのだ。基本的にライブラは戦闘特化のチームである。
ザップが横たわっている地下は当初の様相をすっかり失っていた。
奇妙な色をしたシミがあちらこちらにつき、血生臭さと薬品の臭いが混ざり合った異臭、砕けた解呪の道具がそこかしこに転がっている。
普通ならば近寄りたくもない有様だ。
けれども、ライブラの面々は毎日のように訪れた。
今日もザップは生きている。そのことに安堵し、未だ彼の体を蝕む呪いに唇を噛む。
彼でなければならなかった理由は何なのか。度し難い人間のクズとはいえ、ザップは幾度となく世界を救い、仲間を救ってきた。一般的な幸福は恵まれていなかったかもしれないが、当の本人としては一時一瞬の人生を謳歌していた。それが、数十年続くのだろう、と呆れながらも彼の仲間達は信じていたというのに。
「――て、顔、して……んだ、犬……」
ザップはいつの間にやらやってきていたチェインに声をかける。
悲鳴を上げ、時には無理やりそれを押し殺してきた結果、彼の喉は傷つき、声は掠れていた。
だが、言葉が聞き取りにくいのは何もそのせいだけではない。肺を膨らませ、舌を動かし、息と共に言葉を吐く。その一連の動作でさえ、ザップの血流は蠢き苦痛に変わるのだ。故に、ザップは必要最小限の力でしか口を動かすことができない。。
「黙って」
「ひ、っで……な、おい……」
「黙ってって。
話さないで。口を開かないで。じっとしてて」
できるかぎり平坦な声で告げる。
そうしなければ、泣いてしまいそうだった。
「……く、な……よ」
「泣いてない。馬鹿。馬鹿猿」
攻撃したこと幾千、罵倒すること数万、死ねと口にしたこと、幾百。
本当に死んでほしいわけではなかった。こんな風に苦しんでほしいわけでもなかった。軽口の延長戦であったし、ザップもそれを理解していただろう。
けれど、今になって、あの言葉達が重い。
戦いの中で死んでくれていたならば、ここまで苦しくはなかったはずなのだ。
馬鹿だ、と一筋の涙でも流して、数週間も経てばザップの馬鹿話を周囲に披露だってしてみせた。なのに、ザップはまだ生きている。地獄のような苦しみの中で、生命のカウントダウンを静かに聴きながら。
呪いを作り出した張本人から解呪方法を聞かなければ呪いは解けないのだ、と諦めをつけること二日。周囲もザップも、そのことを嫌というほど体に刻み込まれてしまった。
ザップは眠るように瞼を閉じている時間が長くなった。本当に眠っているわけではない。たとえ、眠ることができたとしても、すぐに苦痛で目が覚めてしまうのだ。
彼は今、余計な情報を遮断することで、自身の血をより精密に動かすことに集中している。現状を生きている、と言えるのかはわからない。
ライブラの仲間達は日々、ザップの声にならぬ悲鳴を夢に見るようにまでなっていた。消えてしまった声の中、彼は何を叫んでいたのだろうか。願わくば、死を願うものでなければいい、というのは、健常に生きる者のエゴだろうか。
この頃になると、スティーブンは二日に一度はライブラを空けるようになっていた。彼は何も言わなかったが、おそらくギッドロの元へいき、拷問の手伝いをしているのだろう。一日でも、一秒でも早く解呪の方法を知るために。
仲間達の思いも届かず、ついに生きていることがわずらわしくなる激痛をザップが全身で感じること一週間。動けば痛みが増すというのに、灼熱の痛みに思考回路が焼ききれたのか、暴れるようにして苦痛を叫ぶようになった。血が暴走し、ザップの肌を突き破ってはただの血液に戻って地面に落ちる。クラウスが抱きしめるようにしてザップの動きを止めては見るものの、耳元で叫ばれる苦痛を示す言葉の数々はクラウスの胸を切り刻む。誰の目に見ても、二人とも限界だった。
ザップの細い血管は破壊され、褐色の肌があちらこちら赤黒く染まっている。精神面だけではなく、体も悲鳴を上げている。生命活動の停止が間近にあることを叫んでいた。
否、それは、ザップの願いでもあった。
「こ……ろ、せっぇ!」
掠れた声が、もはや声を上げることも困難であろう喉が悲鳴と共に懇願を口にする。
「――のむ……こ……して、く……れ」
自身を抱きしめるクラウスの背を殴り、爪を立て、必死に願う。
苦痛からの解放。磨耗からの救済。願いは強く、切ない。
「キミの苦痛を和らげることすらできない私を許してくれ。
痛みをわずかでも代わることのできない私を憎んでくれ」
クラウスの言葉を意味の無い単音がかき消す。
血管を削る痛みがザップから思考を奪う。母音を叫び、周囲を攻撃する。それだけがザップに許された行動だ。
愛した仲間も、守るべきものも、培ったモノ達も全て空虚に飲み込まれ、今や残されたのは痛みと怒りと嘆きばかり。涙の枯れた目からは一筋の涙も溢れず、赤い血ばかりが周囲に飛び散る。
おそらくは、殺してやるべきなのだろう。
これ以上の苦痛を与え続ける意味がどこにあるというのか。死は安らぎだ。解放だ。今のザップが最も求めてやまないものばかりがそこにはある。
けれども、ライブラはそれを選ぶことができない。
ザップは仲間なのだ。
愛おしい者なのだ。
守るべき者なのだ。
死が慰めになろうとも、生が業火をも超える地獄になろうとも、今、生きている彼を殺すことはできない。その咎を背負う覚悟こそあれども、悲しみを背負う覚悟は誰にもなかった。
せめて、堕してくれたならば、もはやザップと呼ぶことができなくなったならば、背負う覚悟もできただろう。諦めることも、できただろう。
「おれは、も……た、かう……とも、で……き、ねぇ」
だが、そこで苦痛を叫んでいるのは、まぎれもないザップなのだ。
戦うことができず、ライブラのお荷物になってしまう、と嘆くのは、何処をどう見てもザップ・レンフロでしかありえない。
もう少し、あと少し、生きてほしい。その願いを繋いで、十年先も生きてほしい。そこに苦痛があろうとも、幾度死を願おうとも。
これはエゴだ。仲間の死を恐れる者達の傲慢なる願いだ。そう、理解できていても、そのエゴを打ち破ることはできないのだ。
時間だけが無情に過ぎ、ザップが感情の発露を鈍らせること二日。殺してくれ、という懇願をやめたザップはひたすらに静かだった。全てを諦めたような空虚な瞳で面会に来るメンバーを無感情に映すばかりだ。
声をかければ反応を示し、時には瞳が柔らかくもなるので心が壊れてしまったわけではなさそうだ。もしかすると、あまりの痛みに脳が麻痺してしまったのかもしれない。解呪が成功したとして、もとのザップに戻ることができるのだろうか。今まで考えないようにしていた不安がよぎる。
だが、兎にも角にも、まずは解呪を成功させなければ不安も何もない。
「ザップさん、オレ、あんたが生きてて、嬉しいんです。
すみません。こんなの、酷い、っすよね……」
手をとり懺悔するレオナルドにもザップは優しい空虚な目を向けるばかりだった。
静かな人形と化したザップに胸を痛めていると、突如、緊急警報がライブラ基地内に響いた、一瞬、ザップが反応したのは長年の習慣からだろう。本来ならば、彼は一番槍として戦場に赴くのが役目。
こんなことになってしまってもまだ、ザップの体は自身の使命を忘れていない。
「少年、血界の眷属だ」
慌しくザップの部屋へやってきたスティーブンが告げたのは、強敵の出現であった。
インドで現れた血界の眷属が血脈門を用いてHLにやってくるのだという。大まかな場所こそわかれども、町の何処に出現するのかまではわからない。人数を用いてしらみ潰しに町中を見て回るしかない。その上で、滅殺ではなく、封印を敢行するのだという。
「……いってきます」
後ろ髪を引かれながらも、レオナルドは部屋を出た。
それを見つめているザップの瞳がかすかに悔しげだったのは、きっと気のせいではなかった。
レオナルド、クラウスとは別行動を取っていたスティーブンがK・Kからの連絡を受けて向かった先は、かの有名な大怪獣、ゴジラでも通った後なのかと思わずにはいられない惨状だった。
遠目からでも立ち上がる火の柱や爆発は目にしていたが、その場に立ってみるとその凄惨さが肌で感じられる。皮膚を裂くような研ぎ澄まされた現場は、殺気の応酬という表現がよく似合う。
地獄のようなその場に立っているのは二人だ。
方や小さなボロ布に納まり、杖を持つ者。方やロングコートに身を包んだ者。
血界の眷属は半身が欠損しているという情報だ。一見すれば前者こそが血界の眷属なのだろうと思える。
「この町において見た目で判断するのはまずいな」
スティーブンの言葉にK・Kは無言で頷く。ありえない、がありえてしまうのはHLという町だ。目だけを信じるわけにはいかない。
二人が懐から鏡を取り出すのは殆ど同時だった。
「こっちだ!」
叫んだのはどちらだったか。あるいは両方か。その声が空気を伝播して周囲に響くよりも先にスティーブンの氷とK・Kの雷が血界の眷属を攻撃した。
一瞬、めくれ上がったロングコートの中には上半身が存在していない。
普通ならば死んでいるはずだ。それでも意思を持ち生きている。血界の眷属とはそういうイキモノだ。
「――ん?」
視界の端、スティーブンは残されたもう一方を見た。
彼は何かを探すように周囲を見ている。強敵を前にして、それ以上に優先されるようなものがあるというのか。そもそも、命のやり取りをしている最中に余所見をする暇があるというのか。
そもそも、彼は何を思い、血界の眷属と対峙していたのか。わからないことだらけではあるが、こちらに攻撃をしかけてこないところを見るに、敵ではないのだろう。
ならば、集中するべきは一つ。
「もう一発――!」
K・Kの叫びが聞こえた。
スティーブンもその声に同意するかのように蹴り上げる構えを取る。その時だ。二人の間を見覚えのある、しかし、それよりもずっと高熱で強大な熱が通ったのは。
ギシャギシャ、という掠れた金属のような音は、先ほどまで血界の眷属と対峙していたボロ布から発せられているようで、業火も彼の手から放たれていたのであろうことが指先から伸ばされている赤い糸で判断できた。
どうりで見覚えのあるはずだ。
炎を圧縮させるかのように風が動く。
「伝説の二重属性使い。本物中の本物、というわけか」
呟くスティーブンの顔は何処か険しい。
「斗流血法創始者であり、『血闘神』……。
裸獣汁外衛賤厳殿」
即ち、彼こそが、ザップに血法を教えた張本人である。
スティーブンの顔が強張るのも無理はない。ライブラに所属している彼の弟子は、死の淵にふらふらと揺れながら立っているようなものだ。誰がどう考えてみたところで、師匠としては怒り心頭になること間違いなしだ。
緊張した面持ちのスティーブンとK・Kを横目に、汁外衛は真胎蛋と化した血界の眷属を素早く攻撃する。六つの目玉をコンマ一秒のズレもなく突き刺せば、その場は水滴一つ音をたてない静けさに包まれた。
静寂を打ち破ったのは、聞く者を不安にさせるギシャギシャという声だった。
汁外衛はスティーブンに顔を向け、何やら言葉を発している。雰囲気から、彼が喜ばしい言葉を発しているわけではないことだけはわかるが、細かな内容まではわからない。
思わずスティーブンはK・Kと顔を見合わせる。互いに助けを求めてみるが、どちらも異界の言葉を嗜んではいないため、目の前の御仁が口にしている言葉を理解することができずにいた。
そこへ、丁度いい具合にレオナルド達が現れた。二人はやってきたばかりのレオナルドに助けを求めるような目を向ける。
状況をいまひとつ理解できていない彼に酷なことを願っている、という自覚はあったものの、縋れるものが他にない。
しかしながら、残念なことに神々の義眼を持ってしても汁外衛の言葉を解することは不可能だった。そもそも、レオナルドのもつソレは言葉を解することができる代物ではない。
「申し訳ございません。我々にはあなたの言葉がわかりません。
どうか寛大なお心でお許しください」
クラウスが前に進み出て汁外衛の前に膝をつく。倍以上もの身長差を気づかった結果だろう。
「……貴様が滅 獄を付与ざれ し血が」
しばしの間を置いて、ひび割れた声が場に落ちた。
先ほどまでよりも歪で、掠れ、壊れた音ではあったが、何とかその場にいる全員が理解できる言語になっている。
「はい」
「面構えば面白 い……。
じがじ、応え よ。ごの場にわ じを師匠ど呼 ぶ矮小な脳を持っ だ愚が者がお らぬ理由を」
小さな体から出される威圧感はクラウスのそれと比較してもまだ大きい。圧迫どころの話ではない。周囲を全て圧縮し、塵芥にでも変えてしまおうというのではないかと思えるほどだ。
汁外衛は理解しているのだ。ザップが戦いの場に赴かぬはずがないということを。師匠を恐れて逃げ隠れしているわけでもないことを。
何かが弟子に起こっているのだと。
「ざあ、早に応え よ。
ぞの無駄に太 い首ノ上にあ るノば飾りが?
質問に応 えるごども でぎぬぼ どに縮こまっでお るのが?
単純な受げ答 えもで ぎぬ口なら ば我 が血法で縫い付 げてしま おうが」
指先からクラウスを威嚇するように細い血の糸が伸ばされる。
本気だ。誰もが脳に叩き込む。
目の前にいる者は、言葉を違えない。クラウスとは別の意味で頑固で、嘘のない者なのだ。彼には嘘も誤魔化しも通用しない。全てを包み隠さず話すしかない。それが、さらなる怒りを生むと予想できていたとしても。
「……ザップは、呪いにより、我々の基地で伏しています」
言葉に滲む苦痛は、自身の無力さを嘆いてのものだった。
「全ては私の力が及ばなかったばかりに」
「黙れ」
クラウスの言葉を歪な音が打ち消す。
獣の頭蓋の下、かすかに見えた汁外衛の瞳は細められていた。そこに映る感情は複雑すぎて、レオナルドでも見通すことができない。
悲しみのようにも、苦痛のようにも見えたソレは、おそらく、一生を使ったとしても一つの言葉にまとめることなどできやしない。
「ど ごにいる」
「……ご案内いたしましょう」
車の扉を開けたのはスティーブンだ。
汁外衛にはザップの現状を見る権利がある。そして、そのことについてライブラへ敵対心を向ける権利もある。
存外、素直に誘いに乗った汁外衛は、車に揺られ、秘密の道順を通り、正式にライブラ基地へと導かれていった。本来ならば、いくら血闘神とはいえど、ライブラでも牙刈りでもない者には見せることのできない部分だ。最悪でも目隠しの一つはさせてもらいたいところだった。
だが、それをするのはあまりにも礼を欠いている。相手はただ、一番弟子に会いたいだけなのだから。
「――じ、じい」
扉を開けた先にあったのは世界中の地獄を詰め合わせたような光景だ。
掃除はされているのだろうけれど、壁や床に染み付いた汚れは落ちきらず、斑模様を成している。同様に臭いも落ちることなく部屋の中に充満していた。
それだけでわかる。ザップがどのような目に合っていたのか。
いや、例え部屋が眩く清掃されていたとしても、汁外衛には理解できただろう。ベッドの上に伏す一番弟子。血肉から力が抜け落ち、瞳はわずかな感情を映すばかり。掠れた声は悲鳴と慟哭の跡。
「ちが……れは、お……が」
汁外衛の体から立ち上る怒りに気づいたのか、ザップは震える手を動かし、彼へ向ける。
動かせば苦痛を伴うと知っているライブラの面々は、慌ててザップを止めた。汁外衛の怒りは元より想定内のことであり、ザップが苦しみを押しのけてまで弁解しなければならないようなものではない。
流石に怒りに身を任せた攻撃によって殺されるわけにはいかないが、その辺りの理性はあると信じたい。
ザップの反応とライブラの反応に対し、汁外衛はまたもやギシャギシャと解することができない言語を用いて怒りを発露する。それを受け止めようにも、ライブラの面々にはその言葉がわからない。受け止めようがない。
「っせ、よ……オレは……って、にん、げん……んだよ」
しかし、ザップは汁外衛の言葉を聞き取ることができているらしく、何やら反論をしている。
歪な音と掠れた音のやり取りが何度か行われると、ザップは軽く目を見開いた。彼の感情が露になっているのを見るのは、何故だかとても懐かしいような気がする。
「――ったよ」
その言葉を最後にザップはゆっくりと目を閉じた。
疲れによって眠ったわけではない。呼吸が静かに、深くなっていく。
集中しているのだ。それも、体全体を覆うほどに。
「……かに、ら……かも」
数分が経過した時、ザップがヘラリ、と笑って見せた。声こそ掠れたままであるが、心なしか彼の顔色がよくなっている。片腕を軽く動かしてさえ見せたのだ。
「ザップさん?」
「ち、と……面倒……けどよ……」
曰く、血流の操作をより精密に行うことで、血管を傷つけぬようにしているのだという。その説明を受けたスティーブンは思わず愕然とした顔をしていた。
ザップが天才なのは重々承知していた。細やかに己の血を動かし、万能かと思える程に幅広く扱う様を見ていれば嫌でもわかる。しかし、血管を傷つけぬようにする、というのは、もはや神の所業といってもいい。
体中に広がる血管は大小あわせて繋げれば地球を二周半するだけの長さになる。それら全てに意識を向け、操るということは考え付いたとしても実際にできるものではない。
ついこの間まで見ていたはずの、しかし、どこか懐かしいあくどい笑みを浮かべたザップを誰もが見つめていた。
根本が解決したわけではないが、これでまた少し、時間を稼ぐことができる。苦しみからわずかでも解放される。ギッドロの口が割れるまで、ザップがもつかもしれない。
「――ごノ脆 弱な木屑ばご ごに置いで いぐ」
再び、汁外衛は誰もが解することのできる言葉を口にした。
自身の言葉を通訳できるザップの現状を把握し、最も手っ取り早く、尚且つザップに負担の少ない方法を選んだのだ。
「本来ならば、連れ帰 り一がら修行をざ ぜなおずどごろでばあ るのだが、腐っだ小 枝よりも脆ぐ弱 いコヤ ツを連 れ帰っだどごろ で死ぬだげ。
ならばま どもに動げ る程度になるまでばご ごにいだ 方がまじどい うもの」
鋭い眼光がライブラの面々を射抜く。
「心じ でおげ」
連れて帰る、という言葉をではない。
巣立った後とはいえ、一番弟子を思わぬ師匠はいない、ということを。
その後、汁外衛はHLの外からやってきた血界の眷族の上半身を新たな弟子であるツェッドと共に討ち、クラウスの手によって封印されたのを見届けてどこかへ消えていった。
残されたライブラの面々がシナトベ、と呼ばれる斗流血法を用いていたことをザップに告げれば、彼は仄かに笑って弟弟子について尋ねてきた。
どうやら、汁外衛とのやり取りの中で弟弟子がいることについては聞かされていたらしい。本当ならば、ここに置いていく予定であったことも。
「あ……じい、オレが……けねぇから、ま……ておけねぇって」
任せられない、その言葉は本来、ザップに向けられたものではないのだろう。彼という強靭な戦士を死の淵にまで追いやってしまったライブラに対する苦言だ。そんなところに二人目の弟子を置いてはいけぬ、と。
ならば、よりいっそう、託された一番弟子を大切にせねばならない。否、託されたからではない。仲間だからこそ、守り、慈しむのだ。
凪いだ心で血流を操作し苦痛を軽減させること一週間。ザップは日に日に元気を取り戻しつつあった。掠れた喉はその機能を思いだしたかのうように言葉を漏らし始め、寸分動かすことさえ躊躇われていた体は、末端を動かす程度ならば難なくされるようになっていた。
「もう少し大人しくしててもよかったのに」
「あー? んだと、この雌犬。
自由に動けるようになったら覚えていやがれ」
相も変わらず異臭が充満する部屋の中でこういった軽いやりとりまでされるようになっていた。
彼らは互いに呪いに苦しめられていた時に見たもの、感じたものを引きずらず、あるべき立ち位置に収まっている。日常、といえる時間を少しずつ取り戻すことがこの上ない喜びなのだ。
「ピザ食えそうっすか?」
「そっちはまだきっちぃわ」
「んじゃ、まだしばらく点滴っすね」
胃袋に何か入れたい気持ちはあるのだが、食物を摂取することで激しくなる血流を抑えられるほど、ザップはまだ全身の血液をコントロールしきれていない。
それでも、いずれは自由に喰い、動き、戦えるようにはなるだろう。
今はまだ莫大な集中力が必要とされ、感情を揺らす一瞬で血管がガリガリと削られてしまっている状況だ。事態は好転しつつあるが、まだ油断はできない。
「しかし、お前は本当に天才だな」
「つっても、これ、超疲れるんすよ……」
超疲れる、で済むあたりが天才なのだ。
集中力に脳が焼ききれることもなく、それどころか一日経つごとにザップが口を開く回数が増えている。体の隅から隅まで掌握することに慣れてきている証拠だ。
「ゆっくりでいいからね。
無理はしなくていいのよ」
K・Kは優しく目を細め、ザップの頭をそっと撫でる。
美しく煌いていた銀糸の髪は、呪いによるストレスとダメージによってすっかり色艶を失い、殆ど白髪のようになってしまっていた。
惜しい、とは思う。しかし、それを対価にザップが今も生きているのだ、と思えば、くすんだ白色でさえ愛おしい。
「体が鈍っちまうっすよ」
ザップは笑う。
仲間の優しさが暖かい。心地よい温もりにいつまでも浸っていたい反面、一刻も早く戦えるようになりたかった。いつまでもお荷物は嫌だ。戦うことが一番の役割であり、己の生き方だ、と彼は知っていたのだ。
術の練度が上がっているのは感じている。おそらく、この調子ならば後二月もすれば自由に動き回ることができるようになるだろう。足を引っ張らずに戦えるようになるのは、そこからさらに数ヶ月かかるだろうけれど、ある程度動けるようにさえなれば手伝えることもあるはずだ。
その時のザップは、妄信していたのだ。
平穏で安寧とした日々を。
「――は?」
思わずザップはベッドから勢いよく起き上がった。
乱れた集中力に血管が削られる。
痛い。体全体が。特に痛む胸は、きっと呪詛のせいではない。
「もう、いっぺん、言ってみろよ」
報告にきた一人の男。彼の胸倉を弱々しい手つきで握る。
「……何度でも同じことを言うぞ」
男は悲痛に顔を歪め、胸元のすっかり細くなってしまった手を掴む。
「スティーブン・A・スターフェイズ。チェイン・皇。ギルベルト・F・アルトシュタイン。K・K。レオナルド・ウォッチ。
以上五名の死亡が確認された」
「嘘だ!」
「オレだって信じたくない!」
ザップの手から力が抜ける。
ずるり、と二本の腕が垂れ下がり、ふらふらと揺れた。
「血界の眷属と交戦中、彼らは殉職した。
生き残ったのはかろうじて血界の眷属を封印したクラウスさんだけだった、と聞いている」
嘘だ、という言葉がザップの頭の中で乱反射し、回り、溶けていく。削られる痛みに微かな呻き声を上げながら、彼は横たわっていたベッドから半ば滑り落ちるようにして降りた。
重い音と共に床に体を横たわらせたザップは、そのまま這うようにして扉の方へと向かっていく。
そこに確固たる意思はない。
本能に突き動かされるのと同じ、すなわち、無意識の行動だ。
「おい、落ち着けって!」
報告にきた男が慌ててザップの肩を掴むが、その程度の妨害で止まる彼ではない。
「じゃま……すんな!」
ザップの指先から伸びた赤い糸が男を振り払う。
血法を使用したことで血管が痛む。だが、それにかまけている暇はない。ザップは呼吸を落ち着け、精神を集中させる。いつも以上に深く、鋭く、長時間保つ必要はない。クラウスのもとへつくまでの時間、繋ぎとめることができる程度あればいい。
体の末端まで意識され、血流は血管を傷つけない。それどころか、指先から流れた血がザップの足にまとまりつき、落ちた筋肉を補助するように蠢き始めた。
呆然とする男を尻目に、ザップは駆け出す。
全快のときとは比べ物にならぬ遅さではあるが、それでもそこいらを歩いている人間以下とは決してならぬ早さだ。
制御しきれなかった分の血流が細い血管を破壊していく。赤黒く染まりつつある肌をライブラの面々が見たらきっと怒りを露にするだろう。そうしたら言ってやるのだ。
お前達が誤報を流させるから悪いのだ、と。
その一心でザップはHLの町を駆け抜けた。
「――旦那っ!」
病院の一角。用意された病室。
ザップは乱暴に扉を開ける。
「ザップ……。
どうしてここへ」
ベッドに横たわるクラウスがそこにはいた。
通常よりも二周りほど大きいベッドだが、巨体のクラウスが乗っていては小さく見えてしまう。いや、ザップが覚えた違和感は、そんなところではない。
そもそも、ライブラ最強の男が、包帯を巻き、点滴を打たれ、真っ白なベッドに横たわっていることがおかしいのだ。それも、広い部屋の中、たった一人で。
「な、あ……。
ほかの、やつは?」
ザップの声は震えていた。
彼の足を補助していた血はただの液体に戻り、ズボンを赤く染める。
落ちた筋肉と、痛む体によりザップはのろのろとした足取りで、しかもふらつきながらしかクラウスの傍へ歩み寄っていくことができない。
「スターフェイズさんは?
ギルベルトさんは?
姐さんは?
雌犬は?
レオは?」
仲間の名前を呼んでいく彼の顔は酷いものだった。
褐色を青白く染め、目は不安定に揺れ、今にも涙を流さんばかりだった。震える唇から哀哭が漏れるのも時間の問題だろう。
「――すまない」
クラウスは目を閉じる。
口にした一言には、とてもではないが一言で言い表すことのできない感情が混ざり合っていた。その全てを、ザップは正確に受け止めた。
「あ……、あぁ……」
ザップはその場に崩れおちる。
顔を手のひらで覆い、悲痛な声を上げて床に頭をこすりつけた。
その声は苦痛により死を懇願していたときよりも苦しげで、悲壮なものであった。それ故に、その声を聞いても誰一人として病院の者は病室に入ってくるようなマネをせずにいた。悲しみと向き合うために必要なのは時間と心を預けられる人間なのであって、見ず知らずの医者ではない。
「わ、たしの……力が足りない、ばかり、に……」
唇を噛み、クラウスは静かに涙を流していた。
彼は全てを見ていた。仲間達が血界の眷属に殺されていく様を。最期に全てをクラウスへ託し、笑みさえ浮かべながら絶命していったその光景を。
忘れることはないだろう。尊く思わぬ日は永遠にこないだろう。世界のために、愛する者のために生きて死んだ者達のことを。
神へ向けた懺悔か、死した仲間への謝罪か、あるいは残されたザップへの償いか。クラウスの言葉を聞きながら、ザップは首を横に振る。
クラウスは何一つとして罪を犯してはいない。
仲間達は望んで命を賭した。一般人よりも早く己の人生が終わることを覚悟していた。咎はクラウスにない。仲間もそれを望まない。ザップとて同じ気持ちを持ってライブラに所属しているのだから、彼らの気持ちが痛いほどにわかった。
だが、理解と納得は、別のものだ。
ザップは理解していた。仲間が望まぬことを。しかしながら、彼は責めずにはいられなかった。
彼らが死に行くその瞬間、ベッドで横たわっていることしかできなかった自分自身を。
戦力が一人増えたところで結末は変わらなかったかもしれない。己という死体が一つ増えただけかもしれない。体の痛みを押さえつけて参加していたところで足手まといになっただけだろう。下手をすればクラウスまで死んでいた可能性だってある。それでも、考えずにはいられないのだ。もしも、という仮定を。それによって、誰もがボロボロになりながらも、今も生きて笑っていたかもしれない時間。
死した仲間も、クラウスも、残された者達もザップを責めることはしない。それは仕方のないことで、責める部分など一つも見当たらない。だからこそ、ザップは自分を責める。
ギッドロの呪いを受けていなければ、ギッドロを殺していれば、血法のもっと上手く使えていれば、もっと早く体中の血液を操ることができていれば。
オレのせいだ、とザップは胸の内側で呟く。
実際に声に出してしまえば、即座にクラウスが否定してくれる。それが許せない。許しを求めてはいけない。
巨大な十字架と共に生きて、強くならなければならない。それだけが、ザップの心が救われる道だ。これ以上、大切なものを失ってはならない。奪わせはしない。
――――
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あの日以降、ザップは人が変わってしまった。
傍から見れば、それは良い方向である、といえた。
女遊びもギャンブルもやめ、自身の研鑽に集中するようになった。日々、集中力を鍛え、予想されていた日よりもずっと早くに彼は体中の血液を完璧に掌握してみせ、牙刈りから与えられる仕事を見事にこなし、新たにライブラに加入したメンバーの面倒もよく見るいい先輩となっていた。
だが、古くからザップのことを知る面々は不安を感じていた。パトリックなどはできる限りプライベートでの関わりを積極的に持つように心がけていたくらいだ。クラウスもまた、仕事中のザップを注意深く観察するようになっていた。
そうしなければならない程、ザップという人間は様変わりしてしまっていた。それこそ、いつか壊れてしまうのではないか、と懸念してしまうくらいに。
ザップの腕が落ちたのは、そんな不安が渦巻く日常のとある一瞬での出来事だった。
「せ、先輩?!」
叫んだのは新たにライブラの戦力としてよく働いてくれていた新人の男だ。
彼が見たのは、交戦中の異世界生物にザップの腕が切り落とされたところではない。あろうことか、ザップ自身が片腕を焔丸で落としている場面だった。
「どうした?」
驚愕の表情を浮かべている新人に対し、ザップはひどく凪いだ目を向けている。
今しがた片腕を落とした男と同一人物だと認識するには、灰色の瞳は静かすぎた。
「だ……う、で」
「あぁ、これか。
いいんだ。もともと、壊死しかかってた」
体中の血液を掌握しているとはいえ、四六時中、三百六十五日絶え間なく掴み続けることは不可能だ。戦闘で気分が高揚しているときや、日常のふっとした瞬間、そのわずかな時間でも昔にかけられた呪いはザップを蝕む。
徐々に傷をつけられ、破壊された血管は修復することができず、体の末端は壊死しかかっている部分がいくつかあるらしい。今のところは使うことができているので放置しているが、不要とあらば躊躇無く切り落としていく所存だという。
おぞましい言葉ではあるが、疑う余地はない。
何せ、たった今、言葉の通りに片腕が地面に転がったのだから。
「オレは平気だって。血法がありゃ、どうとでもできる」
しゅるり、と切り落とされた腕から垂れていた血が手の形を作る。
変幻自在、攻撃力を伴うソレは、確かに何かと都合がいいだろう。しかし、それと自分の体の一部を躊躇うことなく落とせる、というのは同一視していい事柄ではない。
「体がちょっと欠けたからって、お前は殺らせねぇよ」
そう言うザップは口角を上げており、とても優しい顔をしていた。
何もかもがちぐはぐな光景だ。イコールで繋げていいものが何一つとしてその場には存在していない。
「どうして」
呟いたのは誰だったのだろうか。
とっくの昔にザップは壊れていたのかもしれない。
堕するような砕け方をしたわけではなかっただけだ。
「ザップ。もっと自分の体を大事にし給え」
「んー? そうだなぁ。考えとく」
あの日以降を生きた二人の会話からもわかるように、ザップは己を省みなくなっていた。いつか見た彼の師匠と同じように、四肢が欠けたところで血法があるのだから問題ない、といわんばかりの戦い方、体の使い方をする。
「……安心しろよ。道は外さねぇ」
仲間の意思を受け取るために、組織や自身の胸にできた彼らという名の穴を塞ぐために、ザップは堕することを自身に許可しない。それは逃げと同意義だから。
あるべきものを、世界を、守るために。
ザップは研鑽を続けた。力が欲しかった。毎夜毎夜、死した者を思って泣く時期が過ぎても、胸の痛みだけは癒えることがなかった。
強くなればなるほどに、あの時にこの力があれば、と思う。そして、さらなる強さを求めてしまう。
人は死ぬ。時間が流れ、ライブラにやってきた新人が一人死んだ。また時間が経ち、一人死ぬ。その度にザップの胸には穴が空き、また後悔し、力を求める。終わりのない螺旋だけが続いていく。
いつしか、ザップは微笑むことすらなくなっていた。
「次は足か」
クラウスはわずかに目を伏せ、ザップに言う。
「しかたねーだろ?
捕まっちまったんだ。切り落とさねーと死んでた」
片足を失い、血液を持って直立しているザップに悲壮感はない。
それどころか、瞳からは一切の感情が消えうせていた。ザップのことを何も知らない人間は、力をつけ、それでもまだ研鑽を続ける様を見て彼を「修羅」と呼ぶ。しかし、クラウスは到底、そうは思えなかった。
何もないガラスのような瞳をした修羅が何処にいる。熱さも冷たさも持たぬ彼は修羅にさえなれない。
「少し休んではどうだ。
キミは働きすぎだ。このままでは残った腕も足も失われてしまう。
その皮膚も、ずいぶんと酷い有様だ」
細い血管が失われていったためか、ザップの皮膚はボロボロだった。特に顔の辺りが酷く、もはや皮とも呼べず、後は渇き落ちるだけ、という風貌だ。HLだからこそ騒がれずに過ごせているが、外の世界へ出れば誰もが遠巻きに彼を見るに違いない。
「そういや、髪も抜けてきてたな。
こりゃ、いよいよあの雑巾ジジイみてぇになるかもなー」
緩く髪を梳けば、ザップの指に真っ白の髪が幾筋も絡みついていた。
感慨もなく髪を見つめ、師匠のことを口にする彼は、ただ人を止めるつもりなのか。あるいは、すでに止めたつもりでいるのか。
「……そういや、この間、ジジイに会ったわ」
「お師匠にか」
「弟弟子、ってのには、結局会えなかったけどな」
少し会ってみたかった気もする、と言ったザップの声は、心なしか昔のように感情を伴って聞こえた。
「もう、独り立ちさせたんだってよ」
「ならば、いつか会えるかもしれない。
その彼も血界の眷属を倒す力を持っているのだろ?」
「そうだな。いつか、会えるかもしんねぇな」
久々に師弟の邂逅を果たしたのは仕事終わりのことだと言う。ギッドロの呪いを押さえつけ、戦うことが可能となったザップの様子を見た汁外衛はどこか悲しげだった。
『――わしとは違う道を歩むとばかり思っていた。
別の道を進む貴様を見てみたかったような気もするが、精々研鑽を怠ることなく自己を制して生きよ』
一介の人間では聞き取ることのできぬ言語で話されたそれをザップはしっかりと胸に刻んでいる。
体を欠損させ、研鑽のみを考える。何と似た者師弟だことか。
汁外衛と違うところをあげるとするならば、彼は研鑽の一環として血界の眷属を討つが、ザップは悪徳を滅ぼすために眷属だけではなく、その他の組織をも討って回っているところくらいか。
ある種の失望を与えてしまった、とザップは直感した。同時に、悲しませてもいるのだろう、と。
だが、もはや彼は帰られぬ場所にまで足を踏み入れてしまった。四肢を失い、それでも自身の命が尽きるその日まで、きっと悪徳を討ち滅ぼして回ることだろう。
いつしか彼は牙刈りの中でも地位を高め、クラウスと肩を並べるほどにまでなり、気がつけば全貌の見えぬ組織の中で頂点を治めるまでになっていた。
昔はいつか倒してみせる、と躍起になっていたクラウスをも超え、とうとうザップは空っぽになってしまった。
空虚だけが残る体を動かし、彼は世界の均衡を保つためだけに動く。髪は殆ど抜け落ち、皮膚までもが剥がれ、ともすれば頭蓋の白さが浮き出ている。
周囲は彼を恐れた。敵だけではない。味方であるはずの者達もだ。
「そっ が、旦那も死 んだ、が」
長老級の血界の眷属を封印し、クラウスはその命を落とした。まだ四十にもなっていない齢のことだ。
報告を受けたザップは一筋の涙を流すだけで、うろたえることも喚くこともしなかった。
心にまた大きな穴が一つ空いただけ。もはや泣けるほど心は残っていない。
本格的に独りになってしまったザップを支える者はおらず、仕事を伝える役目の人間が数人いるだけだった。だから、誰一人としてザップを救おうとする者はいなかった。
「起きた?」
どこか暗い部屋の中、ザップは瞼を上げる。
「でめぇハ誰だ」
「……覚えてないのか。腹立たしい」
床に唾を吐き捨てた男は、その苛立ちを全力でザップの腹へぶつける。
薄い腹に受けた衝撃はザップの体を伝い、彼を拘束している二本の鎖を揺らした。どうやら天井から吊り下げられているらしい。腕一本で体全身を支えなければならないため、負荷が大きい。放っておけば壊死してしまうだろうけれど、特に気にはならなかった。
失われるのならば、また血法を用いればいいだけの話だ。
「――あぁ、思い出じ だ。
この間、潰じでや っだヤヅが」
「そうだよ。キミみたいな下等種族のせいで、ボクが丹精こめて練り上げ、成長させていた計画が潰えてしまった!
忌々しい。拷問にかけ、意識あるままにすり潰し、糞尿と混ぜてやってもこの腹立たしさは消えやしないだろう」
詳細は覚えていないが、目の前の男はザップが潰してやった組織の一つを構築していた者だ。気が遠くなって死んでしまうほどの時間をかけて作り上げられていただけあって、かなり大規模なものだったと記憶している。
積み上げたものを崩すことは容易い。楔を一つ打ち込めばいい。ザップは自身を楔とし、数多の組織や犯罪者を潰してきた。報復にこられたことも数多くある。
だが、この男のような情報を携えてきた者は始めてだった。
「お、がじ なごどを言っ でいだ、な」
ザップの呼吸が乱れ始める。
彼を捉えるにあたって、最も重要なことは体の拘束ではない。
自由自在に動く血法を封じ込めることだ。
眼前で悠然と立っている男は情報をちらつかせ、ザップが動揺した隙をついて捉えた。その後、彼を完全に押さえ込むために一つの薬品を投与した。血液の凝固を防ぎ、操作を不能にさせるための薬。
目が覚めてからこれまで、体外の血を操り、必要な形を作りだすことができない、という効力を見せていた薬品が、その真価を発揮し始めたのだ。
体内を流れる血、その操作が不能になったとき、古い呪いは再びザップに牙を剥く。
「娘の話か?
嘘ではないよ。キミの弱味を握るために草の根を分けてまで探した情報だからね」
男は嗤う。
たった一つの情報に隙を見せたザップを嘲笑っている。
「……それとも、キミは知らなかったのかな?
愛娘の、存在、を」
鼻先が近づけられ、男のギョロリとした目が映る。
むかっ腹のたつ鼻を噛み千切ってやろうとザップが顔を動かしてみるが、あっさりと避けられてしまう。それもそのはず。今のザップは亀のようにのろのろとした動きしかできないのだ。
忘れていた痛みが全身を駆け巡る。
弱っていた血管から破壊されいく音が耳元で聞こえるような気さえした。
「アシュリー、という女に覚えは?」
まだ幸福だったころに聞いた名前だ。体中から響く血管の悲鳴を感じながらぼぅ、と考える。
もとより、幸せが失われて以降、ザップに女の影など欠片もなかったのだけれど。
「その様子だとありそうだね。
彼女の子供さ。ボクもひと目、娘さんを見てきたが、とても可愛らしい子だったよ」
男っはザップに残されたわずかな髪を梳く。
水気も色も失せた髪は気色が悪いほどによく抜ける。
「この髪、昔は銀だったのかな?
彼女の髪はとても美しい銀だった。肌は褐色で、瞳は澄んだアーバングリーン」
ザップの空虚な瞳が揺れる。
銀糸の髪と褐色の肌は、在りし頃のザップを象徴する色だった。そして、記憶の中にあるアシュリーは、それは美しいアーバングリーンを持った良い女だった。
「気の強そうな女の子だった。
名前は、バレリー、というそうだよ」
心臓が激しく脈打つ。それは痛みを増させる行為だ。
血法が使えないのならば、せめて心を平穏に保ち、脈拍を抑える必要がある。
だが、できない。今まで十年間、容易くこなしてきていたはずのことが、今になって全くといっていい程、制御することができずにいた。
「会いたいかい?」
また、心臓が大きく脈を打った。
勢いよく血液が流れ、大小様々な血管が傷つく。
「がっ……や めろ、ご……ず、ぞ」
せめて無様に叫ぶまいとザップは声を押し殺す。
「ほんの善意だよ。
会いたいだろ?
血を分けた娘だ。愛してる、と囁いて、抱きしめて、キスの一つも送りたいだろ?」
甘い言葉に、思わず想像してしまう。
まだ、守らなければならないものだあるのだと。
ザップは親の愛を知らない。そんな自分が、今更現れた我が子を愛し、慈しむことができるだろうか。抱きしめるには腕が足りないし、肩車をしてやるにも片足がなければ不安定で危ない。見た目だって昔とはずいぶんと変わってしまっていて、受け継がれているらしい銀の髪もほとんど残っていない上、褪せて白くなってしまっている。自身が化け物じみた外見だと自覚しているので、怖がられてしまうのではないか、という懸念もある。
しかし、それでも、愛することが許されるならば、キスの一つでも送ってみたかった。
かつて共にいた仲間もことを話して聞かせ、己の活躍を少し誇張してやりさえしたい。
澱み、黒くなった目が縋るような色を見せた。
男は嗤う。
「――ならさ、お願いしてみなよ、ボクに、さ」
正しく強請らなければ、ザップは娘を見ることになるのだろう。
首だけになった、愛しい娘を。
「お、ねが……い、じま ず。
娘に ハ手を、出ざな いで、ぐだ……ざい。
オレな ら、どうな っても……い、いが、ら」
男はにんまりと笑い、ザップの顎を掴む。
「いいよ。
その代わり、色々教えてくれるよね。
ボクを目一杯楽しませてくれるんだよね」
その言葉に、ザップは力なく頷いた。
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