HLの町は今日も賑やかな様相を保っていた。
 歩けば人ならざるモノが蠢き、立ち止まればそこかしこから声なのか軋みなのか判別のつかぬ音が聞こえてくる。
 それらは時として生物としての規範を超えた姿をしており、また別の場所では生命活動を停止しなければならぬような傷を負ってもなお生きている。
 おかしいのは住まうモノだけではない。あちらこちらの異界から顔を覗かせあうモノ達が集う町では、当然のように日々騒ぎが起きる。
 互いに違うルールを持ち、そのどちらもが己の利益を求めている。争いが起こるのは必然だ。
 まともな感性の人間ならば、畏怖し、戦き、この世の地獄を叫ぶだろう。
 しかし、この町にいる大抵の人間はそれらをしない。何故ならば、彼らもまた、HLという世界に染まってしまっているからだ。目の前で鮮血が散ろうとも、質量を超えた生物を見ようとも、人々は、あるいはモノ達はそれなりに生きていく。殺し、殺されをしつつも、生きる、という生物の根幹たる行動原理を殆どの者が持っているのだ。
「なぁ、魚類」
 秘密組織、ライブラの基地の一角で声を上げたのは、この町に染まりきった人間の一人であるザップだ。
 世界の均衡を保つために日々暗躍し、また血飛沫を上げさせている組織に所属していたとしても、手持ち無沙汰な日というのは存在する。今日も今日とて、HLの町は常と変わらぬ談笑と断末魔と世界の危機で溢れている。何とも平和で、何気ない時間だろうか。
「なんですか」
 憮然とした声を返すのは、ザップの弟弟子にあたるツェッドだ。特に出動命令も出ていないので、今は特別にあつらえてもらった水槽のなかでのんびりとしている。
 エアギルスを着用していれば問題なく陸上の生活を送ることもできるのだが、基本的に体のつくりが水中向きになっているため、用事がないのであれば水の中にいる方が体にかかる負担が少なくてすむのだ。
 当然、そんな状態のツェッドの傍いたところで、楽しいことは何もない。喧嘩をして遊ぶこともできなければ、カードゲームをすることすらできない。知的な会話を楽しむ分にはいいのかもしれないが、ザップにそれを求めるのは酷というものだろう。
 そういう理由から、ツェッドが水槽に入っている時にザップが近くにいる、というのは珍しいことだった。そもそも、彼は大抵、保護対象であるレオナルドの隣にいるか、体と金で繋がっている女性の隣にいるかの二通りのパターンでいることが多い。新米仲間のレオナルドがツェッドを食事や散策に誘うからザップもツェッドとつるむことが多いだけで、一対一で隣り合うというのは、実に珍しい出来事なのだ。
「お前は、あの雑巾ジジイと会う前からお前だったのか?」
「はあ?」
 意味が理解できない問いかけに、ツェッドは思わずザップを凝視する。
 軽薄な表情を浮かべることの多い顔だが、今に限っていえば至極真剣な顔をしていた。ただ、深刻そうなわけでもなく、ふと思い出した大切なことを問いかける、そんな印象を与える顔だ。
「……言っている意味がよくわからないんですけど」
「バーカ」
「あなたの言語能力の欠落による責任をボクに押し付けないでくれませんか」
 改めてザップの言葉を解するために述べた言葉が小さな罵声となって返ってくる。毅然とした態度で叩き返すのは常と変わらぬ声だ。普段からこうした不毛なやり取りを繰り返しているが、実のところツェッドはこれが嫌いではない。
 跳ね返るようなやり取りはそこに自分ではない誰かがいるからできることだ。また、相手にもある程度、やり取りをする気がなければならない。汁外衛のもとで修行をしていた時、ツェッドは一人ではなかったが、誰かと共にいる、という充実感は薄かった。血法の質を上げ、自分の力が増しているという感覚だけが、日々の支えであった。
「そんまんまの意味じゃねーか」
「あの人類の言語であるかどうかさえ疑わしい言葉が、ですか?」
「てめぇ、この水槽ぶち割ってやろうか」
 水槽のガラス越しに見えるザップの目は、すっかりいつも通りのチンピラ色をしている。常に携帯しているジッポを懐から取り出しているあたり、半ば本気で水槽を破壊するつもりなのだろう。彼にはそれだけの力がある。人間性はともかくとして、ツェッドはザップの持つ天性の才能と戦闘力だけは信用しているのだ。
「その場合、弁償してもらいますからね」
 冷たく言い放つ。ザップが返済を拒絶しようとも、直属の上司であるスティーブンがそれを許さないだろう。あの笑みの下に腹黒いものを抱えた彼ならば、どのような手段を講じてでもザップから金を搾り取ってくれるに違いない。
 ザップもそのことが容易に想像できたのだろう。心なしか顔を青くさせ、苦し紛れの舌打ちを一つしてからジッポを懐にしまう。
「で、さっきの言葉はどういう意味だったんですか?」
 二拍ほどの沈黙を経た後、ツェッドは改めて尋ねなおす。
 馬鹿で愚かな兄弟子の言葉などなかったことにしてもよかったのだが、どうにも質問の意味が気になってしかたがない。どうせ、今日はどこか遠くで裏取引が行われていたり、恐ろしい殺戮兵器が開発されていたりする程度の平和すぎる日だ。時間ならばいくらでもある。暇つぶし感覚に兄弟子の阿呆な言葉を解読してやるのも悪くはないはずだ。
「だーかーら、そんまんまの意味だっつってんだろ」
 ザップは唇を軽く尖らせる。拗ねてます、という意思が体全体から発せられているが、それが似合うのは可憐な乙女だけだ。現にツェッドは若干退きぎみでザップを見ている。
「ボクは確かに師匠とあって生まれ変わりましたけど、ボクはボクですよ。生まれてから今まで、変わることなく」
 意味がわからないなりに答えてみせた言葉だが、最後のほうは落ち込み気味の声になってしまっていた。
 ツェッドは自然に生まれた生物ではない。戯れに作り出された人工生物だ。この世にたった一人だけ。どこにいようと、どれだけの仲間に恵まれようと、ツェッドと同じ種族は存在しない。孤独なのだ。ライブラの仲間を大切に思い、満たされるのと同じくらいに、ツェッドの胸には空虚な穴がある。
 世に生まれ出たときから何一つ変わらない。中途半端な姿も、孤独な存在だという事実も。今までも、これからも変わることはないのだ。
 低い声はそんな悲しみの表れだったのだが、どうやらザップにその思いは届かなかったらしい。
「――ふーん」
 興味なさ気なその声だ。しかし、その瞳はどこか憂いを含んでいるように見える。
「聞いてきた癖に、その態度は何ですか」
 一瞬の動揺を胸の内側に押し込め、いつも通りを意識しながら言葉を吐く。
 野生の勘というものを持つザップだが、ツェッドの努力が功を成したらしく、動揺が悟られることはなかった。
「別に。ただ、お前はどうだったのか気になっただけだ」
 いつの間にか取り出されていた葉巻を口に咥え、火をつける。水中の中にいるツェッドには煙もその臭いも届かない。だが、煙に含まれているであろう静かな感情だけは、ガラスを通り抜けて伝わってくる。
 ザップは「お前は」と言った。そこには「オレは」という言葉が隠されている。彼は汁外衛に会うまで「彼」ではなかったのだろうか。馬鹿なことばかりしている兄弟子の過去に何があったのだろうか。
 胸中に生まれた疑問をツェッドはゆっくりと飲み込む。
 修行の最中、汁外衛は兄弟子について話してくれることが何度かあった。奴は馬鹿だが天才だ。戦闘に関するセンスがずば抜けていた。不真面目であった。そんな言葉を聴いてきた。しかし、ザップの中には他にも無数の過去がある。汁外衛と出会う前、というのもその一つだ。
 気にならない、と言えば嘘になる。けれども、聞き出したいか、と問われれば、即座に否定を返すことができる。
 ツェッドとて、飼われていた時代の話はしたくない。誰にだって聞かれたくない部分がある。真面目なクラウスにも、穏やかなギルベルトにも、腹黒い笑みを浮かべるスティーブンにも、強かなチェインにも、優しさと厳しさを持ち合わせるK・Kにも、心優しいレオナルドにも。触れられたくない部分があり、そこに触れない、というのは暗黙の了解でもある。
「……あんた、本当に意味がわかりませんよ。
 今度、エレメンタルスクール用の教材でも買ってさしあげましょうか?」
「いるかボケェ! てめぇ、兄弟子を何だと思ってやがる!」
「素行も頭もすこぶる悪く、強いて、本当に強いて褒めることができる部分をあげるとするならば血法の才能だけ。戦闘時以外は女性をはべらせ、貢がせることにしか興味がない最低最悪のドクズ野郎であり、女性がいなければ日々の生活もまともにできず、かと思えば女性関係のトラブルだけではなく、恨み辛みからの喧嘩に事件を多発させるクソ野郎、だと思ってますよ」
「本当にぶっ壊す。ぜってーぶっ壊す」
 そこからはいつもと何も変わらない。
 ザップは憂いなど見せないし、ツェッドは彼の過去に触れずに過ごす。一時的に水槽の外へ出ては口喧嘩をし、血法を軽く使う。そうして最終的にツェッドは再び水槽に戻る。
 一通りこなすことで満足したのか、ザップは水槽近くに設置されているソファへ豪快に寝転がった。
「邪魔になりますよ」
「今日は誰もこねぇよ」
 目を閉じたザップの顔が水槽からでも見えた。
「スターフェイスさんは偉い人と食事っつってたし、旦那も趣味のあれこれ、ギルベルトさんはそれについてってるし、レオはバイト。犬女は知らねぇけどこないらしいし、姐さんは家族サービスだってよ」
 つらつらとあげられるのはよくこの場所に集まる面子の予定だ。ツェッドも聞いたような気がするし、聞かなかったような気もする情報。
「……よく覚えてましたね」
「たまたまだ」
 応える声は少し掠れていた。目を閉じて数十秒。既に意識は眠りの淵にあるらしい。
「――おやすみなさい」
 小さなその声は水の中を反響するばかり。
 静かになった部屋には、浅い眠りについた呼吸音と、水面がわずかに揺れる音だけが存在していた。