ザップは浅い眠りの川辺でゆるゆると昔を思い出していた。
遠い昔の記憶があちらこちらに散乱している。
それは彼が「ザップ」でなかった頃の現実。覆すことのできぬ過去。
「お前の子か?
髪の色がよく似てる」
「「ソレ」なんてどーでもいいじゃない。私だけを見てくれなきゃイヤよ」
女はたくましい男の腕に寄り添う。声は甘く、唇は潤み、瞳はとろけている。彼女の容姿を見たとき、多くの人間は高得点をつけるだろう。
頭や股が緩くとも、顔が良ければいい。そんな男は少なくない。彼女のもとを訪れる男達は皆そういう類の者だった。
「可愛いことを言ってくれるなよ。オレのキティちゃん」
男達は彼女のことをキティと呼び、彼女自身も自分はキティだと名乗っている。しかし、それが本名でないことは誰もが知るところだ。本物など何一つないこの場所では、真実の名など、何処にでも生えている雑草ほどの価値もない。
彼女はキティであり、その子供である幼子は「ソレ」であり「アレ」であり「コレ」なのだ。
「ソレ」は物心ついたときから周囲の環境がそうであったため、現状に疑問を抱くことはなかった。漠然とした知識の中に、人には名前というものがある、ということは知っていたが、いつだったかキティが、「ソレ」に名前なんて贅沢だ、と男に言っていたことを覚えていたので、そういうものなのだろう、という納得の仕方をしていた。
考える脳のある者ならば誰でもわかるだろうが、「ソレ」は劣悪な環境で育てられた。否、生きていた。
キティは「ソレ」の母親であるのだが、その義務を果たすほどの女ではなかった。男を引き込み、金や食料を得る。そんな生活を日々繰り返しているだけ。刹那主義、とでも言えば聞こえはいいのかもしれないが、結局のところは手の届く範囲の快楽に身を任せているだけの惰性者だ。
子供を生んだのも、単純に降ろす術を知らず、金もなく、面倒事を避けただけ。「ソレ」は勝手にキティの中から生まれ出て、気まぐれに与えられる乳と驚異的な生命力だけで生き延びた。
一人で動くことができるようになれば、「ソレ」は残飯をあさることを覚える。キティと「ソレ」は町から外れた不衛生な場所に住んでいたが、少し足を動かせば綺麗で人の多い町にたどりつくことができた。そこで残飯をあさり、時には他者から物を奪い、空腹を満たす。
まだ小さな体だ。上手くいかない時も多い。幼子というのは、体に対して頭が大きいため、簡単に転ぶ。体力も運動神経もない。大きな大人に捕まってしまうのは、いたし方のないことだった。
「またてめぇか!」
「ぶっ殺してやる!」
「ソレ」の小さな体は何度も何度も打たれた。
痛い、と叫んでも、苦痛に耐えるために唇を噛み締めても、過程も結果も変わらない。「ソレ」が犯した罪が許されるまで打たれ、蹴られる。殺されそうになることもあったが、「ソレ」はどうにか最悪の事態を避け続けることができていた。
「おい、何だあのガキ」
「「アレ」? さぁ、わからないわ」
家に帰ればキティが男を連れ込み、体重ねている最中だった。
「ソレ」は痛む体と腫れた頬を押さえながら体を反転させる。そうするのが、彼女と「ソレ」との間で交わされた暗黙の了解だったからだ。傷の心配をされないのは今に始まったことではない。
ところで、子供というのは親を愛するようにできている。
例え、虐待を受けていたとしても、育児放棄されていようと、本能的に自分の親を知り、愛されるように振舞う。それが最も生存率の高い行動であると本能が知っているのだ。
近しい者に愛され、庇護を受ける。自力で生きることのできない子供はそうやって生きるしかない。
「キティ、食べる?」
「いらないわ。そんなゴミ」
そして、例に漏れず、「ソレ」は母を愛していた。母という言葉も知らぬというのに、盲目的に愛していた。
殆ど一人の力で生きているにも関わらず、「ソレ」の本能は母を愛し、母に愛されることを望んだ。八つ当たりの道具にされようとも、存在しないように扱われようとも、一人だけ飯を食ったのかと怒鳴られようとも、やはり「ソレ」は母を愛していたのだ。時折、ほんの気まぐれに与えられる甘い菓子も愛を深める要因だったのかもしれない。
キティは男から上手く施しを与えてもらえたときだけ、「ソレ」に優しさを与えたのだ。
「美味しい。キティ、ありがとう」
「ほら、もっとお食べ。まだまだあるんだからね」
「うん」
他の誰に何と言われようとも「ソレ」は幸せだった。
普遍的に続くキティとの生活だけが「ソレ」の全てだった。
だが、恒久的に続くものなど、この世界には存在しない。
「……キティ?」
彼女が死んだ。
病だったのか、何らかの毒にやられたのか、殺されたのか。幼い「ソレ」には想像もできなかったし、考えたところでわかるはずもない。
「ソレ」が認識できたのは、目の前にある現実。
キティが二度と起き上がらない、ということだけだった。
突然一人きりにされた「ソレ」は、死という概念だけは知っていた。だが、死んだ人間をどうするのか、という知識は持っていなかった。
「どうして欲しい?
答えれない? オレの好きにしていいの?」
キティの隣に座りこみ、「ソレ」はポツリポツリと無意味な問いかけを続ける。
死体は答えない。わかっている。しかし、「ソレ」にはキティ以外に質問を投げかけることのできる相手がいないのだ。
「仕方ないから、守ってやるよ」
「ソレ」は自分以外に生きた人間のいない空間で、小さく呟いた。声の大きさに反し、その言葉には力強い意思がこめられている。
死者を埋葬する知識を持たぬ「ソレ」は、キティを守ることに決めた。「ソレ」は死体相手に墓守をし始める。最低限の食料を手に入れるとき以外は、片時も離れず死体の傍に座り込み、敵の気配を探った。
外から来た者を悉く追い返す。相手がキティの元彼氏であったとしても、一宿のために立ち寄った人間も、死体を漁りに来た外道も、「ソレ」は分け隔てなく攻撃する。
武器はもっぱら、町で拾った古びたナイフだったが、切れ味は悪くなかった。日が経つにつれ、「ソレ」のいる場所は血に染まっていく。同時に、腐敗の臭いも立ち込めるようになっていた。
死体は腐り、土に返ろうとする。その肉を食むために蝿がたかる。「ソレ」は寄ってくる虫と、いつのまにか湧き出ていた蛆を懇切丁寧に殺していった。キティの体を食う白い芋虫をつまみ、潰す。それだけで一日が終わる日もあった。
「キティ。キティ。お前はオレが守るからな」
「ソレ」の体は栄養不足で痩せ細っている。枯れ枝のような指が腐った肉をなぞり、また一匹蛆を潰した。
重ねて言うが、「ソレ」は幸せであった。不幸という言葉を知らず、比べる誰かのことも知らぬ「ソレ」は、胸いっぱいの幸せを抱えて過ごしている。
そのままキティの隣で悠久の眠りにつけたならば、それ以上のものはなかっただろう。
しかし、現実とは非情だ。「ソレ」が得ることのできる最上級の幸福は、結局落ちてはこなかった。
分厚い雲によって太陽が隠され、そこらかしこが薄暗くなっているような日のことだ。「ソレ」はナニカの気配を感じ、愛用のナイフを握り締める。
自分達の近くに寄ってくる人間の気配を感じたことは幾度もある。静かに近づく盗賊。自身の存在を隠すつもりのないキティの元彼氏。一杯の水を求めて慌しくやってくる旅人。死肉を求める肉食獣。「ソレ」は足音や気配で外にいるモノがどういった類の存在かを認識していた。
だが、今、近づいてきている気配は、「ソレ」の知るどれとも違っている。人というには鋭利、獣というには禍々しい。音の聞こえぬ足の運び方一つとってみても、尋常ではないナニカを感じずにはいられない。
「ソレ」は自分の気配を極力消してタイミングを窺う。足音も衣擦れも聞こえないが、そこにいることだけはわかる。
言葉で現すことのできない、本能的な何かが絶妙のタイミングを叫ぶ。「ソレ」は内なる声に従って気配のもとへ飛び込んだ。手に握るナイフは鈍く、それでも人間や獣ならば突き刺すことのできる代物だ。
薄暗い中、「ソレ」は気配の元を見た。
一見するとただの人間だ。この辺りでは見ない、上品な風貌。髪は「ソレ」と対極的な金色をしている。
だが、それは人ではありえない。
キン、と音が響いた。
「元気だねぇ。クソガキは元気が一番、とはいえ、鬱陶しいよ?」
「ソレ」の体は宙に浮いていた。
完璧なタイミングで飛び込んだはずなのに、不意をつけたはずなのに、人の形をしたナニカはあっさりと「ソレ」を振り払った。しかも、ナニカが手を振り払っただけで、「ソレ」が手にしていたナイフの切っ先は真っ二つに折れてしまっている。
質の悪いナイフとはいえ金属だ。高々人の力で折れるはずもない。
「うがっ!」
地面に叩きつけられた「ソレ」は呻き声をあげながらも、すぐに立ち上がりナニカを睨みつける。
頭や手のひらから血が流れていた。見ていて痛ましい姿だ。それでも、「ソレ」は唯一の武器であるナイフを離そうとしない。例え切っ先が消え失せていようとも、それ以外に「ソレ」が扱えるものはこの場に存在していない。
「ふーん。ボクと殺り合う気なのぉ?」
ナニカは頬に指を当て、楽しげに笑う。
「ソレ」は目の前にある現実が、今まで見てきた何よりも強大で絶望的であることを理解していた。このまま殺されるのだろう、というところまで、「ソレ」は正確に感じていた。
「ここに近づくな。ぶっ殺すぞ」
殺されることは怖くない。いや、怖いことなど世の中に一つだってありはしない。ただ、嫌なのは、自分が死ぬことで、後ろにあるキティが酷い目にあうかもしれないことだった。
もはや人の形を成していない死体であろうとも、着ていた服でさえ腐敗してしまっていたとしても、「ソレ」にとっては大事なキティなのだ。他者に指一本足りとも触れさせはしない。
「面白いじゃん。
クソ生意気でむかつくけど、遊んであげるよ」
瞬間、「ソレ」の体は再び宙に浮く。腹を蹴り上げられ、何も入っていない内臓が口から出そうになる。
「どう? 楽しい? ボクはすっごく楽しいよ。
リフティング上手でしょ? 褒めてくれてもいいよ」
「ソレ」が地面に叩きつけられる前に、ナニカは再び「ソレ」を蹴り上げる。
何度も何度も「ソレ」は宙に浮き、また蹴られる。その度、内臓や骨が悲鳴を上げ、口からは血が溢れる。ひと思いに殺せ、と言う者もいるだろう。しかし、「ソレ」は目を開け、ナニカを睨み続けていた。そこに死の懇願はない。
「はは、もっと苦痛に歪めよ。下等種族。
ボクはお前達のそういう顔が好きなんだからさぁ!」
薄暗い空の下、高らかな笑い声と生物が肉塊になっていく音が混ざり合う。
しかし、それもいつかは途切れる。
「――は?」
笑い声がやみ、単純な疑問符が口から出た。
同時に、肉塊になる手前まできていた「ソレ」が地面に落ちる。
「何だ、これ」
ナニカが呟く。
その腕には、傷がついていた。
「お前か?」
全身を震わせながらも何とかもがき、立ち上がろうとしている「ソレ」に目をやる。
よくよく見てみれば、「ソレ」は未だにナイフを握っていた。折れたナイフ、であるはずだったもの。
「やっかいな力を持っていたか」
切っ先が失われたはずのナイフは、再びその切っ先を我が物としていた。だが、それは元より存在していた鈍い金属で生成されたものではない。今、「ソレ」の手の内にあるナイフの切っ先は、赤黒い血で構成されている。
細胞レベルでダメージを与える血液。
対血界の眷属に特化した人間が訓練、もしくは天賦の才によって与えられし能力。話には聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
「だが、まだ甘い。今のうちに殺せば何の問題もない」
ナニカは笑い、「ソレ」に手を伸ばす。
かろうじて立ち上がることには成功していた「ソレ」だが、ナニカの手を避けるだけの体力はもはや残されていない。刺す。抉る。殺す。それだけを念じていた。手が自分に触れた瞬間、ナイフを突き刺してやるのだと。
「ソレ」の思いに呼応するかのように、ナイフにまとわせている血は密度を増し、大きく変化していく。
今だ。
そう思い、腕を動かせ、と脳が命令した。
「ぎぃあぁあ!」
悲鳴が響く。
ナニカの悲鳴だ。
だが、「ソレ」が手にしているナイフは突き刺さっていない。それよりも先に、ナニカを攻撃した者がいたのだ。目の前の強敵に集中するあまり、もう一つ、近づいてきている気配に気づくことができなかった。
「ソレ」は唇を噛み締め、燃えるナニカの向こう側にいるモノへ目を向ける。
「だ、れ……だ、てめぇ」
途切れ途切れの声で、しかし殺意をこめて問う。
ナニカを殺した張本人らしきモノは、先ほどのナニカとは違い、一見しても人ではない。獣の頭蓋を被っているため顔は見えず、体はボロい布をまとっているために見えない。かろうじて見えているのは、杖を持つ年老いた腕だけ。足もみえず、どのようにして立っているのかすらわからない。
百人に問えば、百人が異形だと答えるだろう。
「わじば 裸獣汁外衛賤厳 だ」
まるで錆びた金属をこすりあわせたかのような音だった。そのため、「ソレ」はその音が言葉になっているのだと一瞬気づくことができなかった。
「ら、じゅう……?」
どうやら名前らしきものを口にした、ということだけはわかったが、聞きなれぬ音と単語に「ソレ」は首を傾げる。反射的な動作だったが、傷だらけの体には些か強すぎる動作でもあった。すぐに痛みが走り、「ソレ」は苦痛に顔を歪める。
「頭ノぼう ば、空のよう だ な。
まあ、いい、わじノ こどば 師匠ど呼 べ」
いつの間にかナニカはその場から消滅していた。全て燃え尽きてしまったのだろうか。残っているのは燃え盛る炎に焼かれ、黒く染まった地面だけだった。
「師匠……?」
「ソレ」の頭は疑問でいっぱいだ。
ただでさえ、学のない「ソレ」には、今日という日の出来事が処理しきれていない。人に見えるが人ではないナニカと、それを殺した見た目も中身も人とは思えないモノ。さらには師匠と呼べ、ときたものだ。何一つとして飲み込むことができない。
「貴様にば 才が アる。
わじガ作りじ、斗流血法を 貴様に叩ぎ込 んでやろう」
「ひきつ、何とかっての、それで、さっきの奴を殺したのか?」
「ぞうだ」
目の前のモノからは殺意を感じない。
「ソレ」は少しだけ気を抜くことができた。ゆっくりと地面に腰を下ろし、荒れる息を整えていく。
「わじば探 じでいだ。貴様ノようなものヲ。わじノ流派を 受け継ぐに相応じい 才を有する モノ。
まざが、このよう な下界で見つがるとば 到底考えもぜんかっだ がな」
キシャキシャとそのモノは笑う。初対面であるが、そいつがご機嫌なのが「ソレ」にはわかった。言葉をそのまま信用するならば、自分の持つ技術を注ぐことのできる相手が見つかった、という事実が余程嬉しいらしい。
「人間デ ある貴様ば恐らぐ わじノ全てを継ぐこと ばできまい、だが、それでも良イ。
ど うせ、この世界ノどごを 探しだどこ ろで、そのようなモノば いないノだからな。
蛆ノよ うに沸ぎ続げ るような生物ども にわじノ技を教え るならば、まだ出来のい い蛆を探 じ、技を与えるぼ うがいい」
骨ばった手が「ソレ」に触れる。
言動から人間ではないのだろうけれど、その手は暖かかった。
時たま、本当に気まぐれに、「ソレ」に触れてくれたキティの手と同じ温もりがそこにある。
「ざあ、 行くぞ。立で。まざが ぞノ程度ノ 傷で立でぬど ば言うまいな?
多少で ぎば いいよ うだが、所詮は蛆、わ じノ期待に応え るほどでば ないど言いた いノが?」
「行く? どこへ?」
「ソレ」は腰を上げる直前に問いかける。
何の恐れもなく、汁外衛と名乗ったモノを受け入れようとしていた。「ソレ」を見て、「ソレ」に何かを注ぎたい、そう言ってくれた初めての相手だ。無条件で信じようとしてしまうのも無理はない。
しかし、この場を離れるというのならば話は別だ。
「ソレ」にとって大切なのは、自分を受け入れてくれる、認めてくれる誰かではない。
すぐ傍にいるキティなのだ。
「ごんな どごろで何が でぎるど思っ ているのだ?
貴 様にば才 があるど言っ だが、一日やそごら で 極めるごどがで ぎるぼど、我が流派ば甘 ぐばない。
修行に相応じ た場所へ 行ぎわじど同じ ように修行をずるごどで ようやぐ流派ノ 門前に立づごど もでぎよう」
錆びた声で語られた言葉に、始めて「ソレ」は怯えた。
このままではキティのいないところへ連れていかれてしまう。おそらくは、もう二度とキティのもとへ帰ってくることは叶わないだろう。
「い、やだ……!」
手を振り払い、「ソレ」は体を引きずるよにして自分の家へと戻る。壊れかけの扉は開いたままだ。大怪我をしているわりには素早い動きだった。しかし、あくまでも怪我の度合いにしては、というだけ。
汁外衛からしてみれば、あくびがでてしまうような速度だ。
血を操り、汁外衛は「ソレ」を捕まえる。
「やめろ! オレはいかない! いかない!
オレはキティの傍にいるんだ。そうじゃなきゃいけないんだ!」
我武者羅に暴れる。「ソレ」の血は体から紐状に伸び、汁外衛の血を引き剥がそうとするが、一定の形を保つことのできない「ソレ」の血と、腕の形を保ったままの汁外衛の血だ。軍配がどちらに上がるかなど、考えずともわかる。
「ソレ」は汁外衛の血に絡めとられ、拘束された。
「いやだぁ! 離せ、離せよ!」
「五月蝿いヤヅよ。 何を喚ぐごど がある?
まるで虻ノよ うに鬱陶し い羽音を出 ずばがり。
言葉があ るノでアれば、しがど言葉に じでみよ」
絡みとった「ソレ」を引きずるようにして、汁外衛は「ソレ」が向かおうとしていた家へと近づいていく。家はそう遠くない。わずかな時間で汁外衛は「ソレ」が求めるモノを見ることができた。
「ごれば……人間であっだモノ が?」
「キティに近づくな!」
拘束されている「ソレ」を家の外に放ったまま、汁外衛はキティに近づく。彼の体がどのような構造をしているのかはわからないが、腰をかがめるようにして死体に触れた。
指先からはぶよぶよとした感触が伝わり、体であったモノのあちらこちらに蝿の卵が見える。
「女であっだモノ ノようだな。
腐敗 臭ど肉ノ腐り具 合がら見で、死んでがらズい ぶんどだっでいるよ うだ。じがじ、ぞ ノわりに蛆ノ蛹や ら抜げ跡が少な い。まざが貴 様、わざわざごの女 に集る虫を一匹一匹潰じ で回っでいだど でも言うノが?
わじノ考 えが正じいどするな らば、何ども愚がじい生ぎ物だな。
ぞのようなこ どをしても、貴様ノ 母親が還っでぐ るわげでも あるまいじ」
キティの体はもはや人の形を成していないが、かろうじて残っている肌の色や、髪の色は判別することができた。そこから、おそらくは「ソレ」の母親なのだろう、という辺りも予想がつく。「ソレ」が死体に執着しているのならばなおさらだ。
「は、はおや? ってのは、よくわかんねーけど、オレはキティを守る。
虫からだって、お前からだって!」
骨が折れ、内臓にも傷がついているだろうに「ソレ」は叫ぶ。痛みなど感じていないとでもいうかのように体を動かし、汁外衛をキティから引き剥がそうと、そのために拘束を振り払おうと必死になる。
しかし、それは蟻が単体だけの力で世界一周を成すことができる確率と同じだけの確率しか存在しない。つまるところ、不可能、ということだ。
「母を知ら ぬが……。
ぞれを哀れに思 う奴も世ノ中に ば多がろう。だが、わじば違 うぞ。
貴様どて、同情なんぞさ れだぐもながろう」
両親の有無が持ちうる才能や技術に関わるというのならば話は別だが、生れ落ちた場所も境遇も、力に何ら影響を与えない。汁外衛は自分の出生を既に忘れている。彼の記憶の大半は戦いと修行で占められており、後は血界の眷属に関する記述と研究に関することばかり。
それ故に、汁外衛は誰に対してでも同じ態度を貫く。権力にも生まれにも美醜にも興味がないのだ。
「だがじがじ、コレノ 存在が貴様を縛 るどいうノならば、わじも考えなぐでば ならん」
「ソレ」の親のことなどどうでもいい。一般的に見れば哀れな境遇だったのだろうことも関係ない。汁外衛にとって大切なのは、これから「ソレ」が斗流血法の修行に打ち込むことと、それにより強くなること。それだけだ。その邪魔になるモノがあるのならば、排除しなければならない。
興味関心がないからこその優しさがあるのならば、その逆もまた然り。
「ざあ、貴様ノ手でご ノ女を殺ズのだ」
告げられた言葉に、「ソレ」は目を見開く。
「――は?」
吐息と間違えるような弱々しい疑問。
強い目は不安げに揺らいでいる。
「執着も依存も全 で貴様自身ノ手によ っで葬られなげればなら ない。
ぞうでなげ れば、無駄な希 望どやらに足ヲ掬わ れるごどどなる。
案ずるなわじが手 伝っでやろうでばな いが。未熟な貴様ノ 血をわじノ血ど 合わぜ操るごどなど造作もな いごど」
「い、やだ……」
何を言われているのか、脳が理解を拒絶する。口から出ている言葉は反射だ。何か、よくないことが起ころうとしている。止めようがない、絶望的な何かが迫っている。
「やめろ、や、めて……」
力なく首を横に振るものの、「ソレ」の体にまとわり付いていた血が緩やかに伸び、同調するようにして「ソレ」の血も後を追っていく。
「お願い……。
オレ、行く、から。
何処にだって、行くから!」
「刃身の弐、空斬糸」
血が細く、長く広がる。
二種類の赤がボロボロのあばら家を取り囲む。「ソレ」はいやだ、とやめて、を何度も繰り返す。
無情に、血とは違う赤さを伴った炎がきらめいた。
「やめろやめろやめろやめろおおお!」
「ソレ」が吼える。
火が燃える。家が焼ける。キティが死んでいく。
自分の血で、血が導火線となった炎で。
「キティいいいい!」
その絶叫を最後に、「ソレ」の意識は一度暗闇に落ちることとなる。
目が覚めたとき、そこは見知らぬ場所だった。
見覚えがないどころか、おおよそ「ソレ」が知っている世界と同一の世界とは思えぬ風景が広がっている。
地面と岩、向こう側には緑も見えるが、木々の形状はどこかいびつだ。さらに言うならば、岩は鋭くとがっているものが殆どであるし、地面の色も黄土色ではなく赤銅色をしていた。
「目覚めだが、全 ぐ意思ノ弱い奴よ。
あの程度で意識をやっ でいでば、命がいぐづあっで も足りぬぞ」
意識を失うよりも前に聞いた錆びた声。「ソレ」は勢いよく起き上がり、そのまま跳躍して距離をとる。
身体が軽い。どうやら、眠っていたのは一日や二日ではないらしい。
「てめぇ……。ぜってぇに許さねぇ。
殺す。殺してやる」
灰色の目が怒りで赤く煌く。「ソレ」の血と同じ色。
「やれるものならば是 非どもやっでもらいだいも ノだ。
精々、自分が言っ だごどぐらいばなぜる ように精進ズる ごどだ」
あふれ出す殺気を気にも留めず、汁外衛は飄々と言葉を続ける。どうやら、本気で「ソレ」に修行をつけるつもりらしい。そもそも「ソレ」は何の修行をするのかすらわかっていないのだが、汁外衛からしてみれば一々説明する意味がないのだろう。どうせ、これから嫌というほどわかっていくことになるのだから。
「……ぞういえば、貴様、名ば何どいう?」
ふと、気まぐれに思い立ったらしい言葉で「ソレ」に問う。
しかし、「ソレ」には答える名がない。贅沢だ、と言われていたことしか記憶にない。
「…………」
正直に真実を言うひつようもないだろう。第一、「ソレ」に名があったとしても素直に答えるはずもない。何せ、名を問いかけてきた本人が恨みの対象なのだ。口を開いてやる義理も何もない。
「答えぬが。まあ、どうで もいい。どうぜ、貴様ノ名を呼 ぶこどな どないノだろうがらな」
見知らぬ土地にいる生物の中で、言葉を解することができるのは汁外衛と「ソレ」だけだ。単純な呼びかけでこと足りる。下手をすれば、呼びかける機会すらなく「ソレ」は死ぬ。
名前の重要度は限りなく低い。
「だが、何があるがわが らんがらな。
貴様が答えぬと言 うノならば、勝手にづげでやろう」
「ソレ」は驚愕の目で汁外衛を見る。
名前をつける、と言ったのだ。
キティが贅沢だ、と言った名前。何人もの男が「ソレ」の前に現れたが誰一人として呼ぼうともつけようともしなかった名前。「ソレ」自身、欲したことのなかった名前。
けれども、つける、と言われ、心が躍る。
「ザップ」
聞き心地の悪い声が呼ぶ。
「貴様ば、今日がら「ザップ」だ」
攻撃性と即時性を兼ね備えた音。
その日、「ソレ」は「ザップ」という名の少年になった。
→