汁外衛との修行は辛い、苦しい、死ぬ。の三重苦だった。一言で表すならば地獄だ。見たこともないような生物に襲われ、現実世界だとは思いたくもないような場所に放り込まれ、熱さにも寒さにも慣らされ、組み手をさせられた。
 合間合間で共に食事をした。初めのころは汁外衛がその辺りの獣を狩り、調理してくれた。煮る、焼く、といった単純なものだったが、まともな食事であることには間違いない。
 次第にザップが自分で食料を調達できるようになると、汁外衛は自分の分は自分で取ってこい、と独自の言葉で告げてくるようになっていたが、それでも食事の時間は共に過ごしてくれていた。
 身体の成長にボロきれのような服がついてこれなくなった頃には、どこから持ってきたのか、サイズの合う服を投げ渡してくれた。言葉はいつもと同じ心ない罵倒であったが、ザップは胸が温かくなるのを疑問と共に感じていた。
 生死の境をさまようような修行をつけ続けられ、数年もすればザップも自分の過去を顧みる余裕と精神を得ることができていた。名前もなく育った時間、地獄のような修行をしている今よりもずっと食事の回数が少なかった日々、存在を認められていなかった人生。
 成長した今だからこそ、本当はもっと抱きしめて欲しかっただとか、名前をつけてくれてもよかったんじゃないかだとかいったことを考えることができるようになった。キティに執着していたあの頃は、身も心も幼すぎたのだ。
 こうして生きて身も心も大きくなり、斗流血法を相応に操ることができるようになってみれば、あの時、キティと共に死ななくてよかったと思える。
 修行は苦しいが、生きることは悪くない。飯は美味いし、獣を挑発して打ち殺すのは存外楽しい。
 未だに恨みの欠片と苦手意識が抜けない汁外衛ではあるが、母親を殺させた、という強い憎しみは既に消えうせている。むしろ、言葉にこそしないが感謝だってしている。
 彼女は弱かった。だから淘汰さえれた。そして土に還った。自然のあり方だ。
「は? 修行は終わり?」
 何もかもが唐突だった。
 ザップが汁外衛の言葉を解すようになってから数年。ザップの身体も十分に成長しきった頃に起こった青天の霹靂。
「どーいうことだよ。
 また何かおかしなこと考えてんじゃねぇだろうな」
 共に過ごした年月の中で、ザップは汁外衛という存在がどれ程、規格外なのかよくよく知ってきたつもりだ。彼が何気なしに口にする修行はどれも拷問じみていたし、時折ザップの横で己の研鑽を成している汁外衛の姿を見たこともあるが、それも尋常ではないものだ。
 ボロきれから見えている部位が腕だけなのは、そもそもそこしか残っていないからだ。失われた四肢は血法でまかなっている。初めこそ便利だな、という印象しか抱かなかったザップだが、己の血を自由自在に扱えるようになった今となっては、彼自身も師匠と同じく怪我をした際には血法で不足を補うことが身に染みてしまっていた。
 最早、汁外衛のことをどうこういえない人外っぷりなのだけれど、彼にそのあまり自覚はない。
「高位の血界の眷属を潰しに行くだぁ?
 だから、しばらく姿消すってか」
 話を聞いてみたところ、今までザップの修行に付きっきりであったがために、己の内側に溜まるフラストレーションを発散する術がなかったらしい。
 必死にもがくザップを観察したり、獣を殺したり、組み手をしたりだということで一応の我慢はしていたらしいのだが、それも限界にきた、とのこと。
 研鑽好きとはいっても、その根底にあるのは戦闘欲だ。ザップの修行も一応の区切りはついたので、自分の欲求を素直に受け入れることにしたそうだ。
「一人で修行できるならしてろ?
 はっ、んなの御免だね。あんたがいなくなるってのに、いつまでもこんなとこにいるほど、オレは物好きじゃねーよ」
 半ば拉致されるようにして連れてこられたこの秘境は本当に何もないし誰もいない。一人でいるところなど想像したくもない場所だ。
「おうおう。好きに行っちまえ。オレも好きに生きる。
 修行? あぁ、まあそれなりにな。
 っていてぇ!!」
 鍛錬を怠ることは許さん、とばかりに汁外衛は血法で作り出した腕でザップの頭を締め上げる。抵抗を試みるものの、結果は惨敗。修行する、という言葉を吐かされ、地面に落とされた。
「……もう、会えねぇかもな」
 立ち去っていく汁外衛の背中を眺め、ザップはポツリと呟く。
 世界は広い。待ち合わせの場所や時間を決めているわけでもなければ、互いに連絡を取り合う術があるわけでもない。何もなければ、もう一生会うことはないだろう。
 思えば長い時間を共にした。キティと共にいた時間よりも、汁外衛と共にいた時間のほうが長くなっていた。それなりに生きた時間の中、ザップが名を知り、関わった人間はたった二人。一人は死に、一人はもう二度と会えなくなる。
 急速に胸が空く。
 風が通り、身体が冷えていく。
 それらを感じながらも、ザップは止めないし追わない。
 意義を感じない。そうする理由もわからない。感情を説明することすらできない。
 だから、ザップは汁外衛の背中が見えなくなるまで、ずっと地面に伏したままだった。その体勢のまま、ずっと師匠の背中を見ていた。
 背中が消え、とうとうザップは秘境で一人取り残された。
 一応、町への道は知っている。いつだったか汁外衛が言っていた。少々入り組んだ作りの場所だが、そこに穴があるらしい。そこを潜れば、ザップの知る普通の町へ出れるだろう、と。
 逃げてもいい、という意味だったのだ。やる気の全くない者を育てるのは不可能だ。本気でザップが逃げたいと願うのならば追うつもりはなかったのかもしれない。もしくは、あの外道のことだ、逃げ出せると思った寸前で叩き潰し、希望なんぞないのだから修行しろ、という意思表示をするつもりだったのかもしれない。
 直接的な言葉を貰ったわけではないので正解を知ることはできない。幼いころは恨みから、成長してからは技の魅力に取り付かれ、ザップは修行に文句をつけたことこそあれども、逃げ出そうとは思わなかったのだ。
「……行くか。いつまでもこんなとこにいたってしかたねぇし」
 立ち上がり、頭を掻きながらかつて教えてもらった道をたどる。
 普通の人間ならば危険な道のりだったが、伊達に何年も修行してきたわけではない。血法と持ち前の身体能力を持ちいれば特に苦もなく進むことができた。
「穴ってマジで穴じゃねーか……」
 半日ほどの時間を使ってたどり着いた場所には、確かに穴があった。
 正真正銘、地面に空いた穴。
「ここに入れば? 町?
 本当かよ……。疑わしいぜ……」
 穴と言いつつ、洞窟のようなものなのだろう、と勝手に考えていたザップだが、目の前にある穴はどうやってみても地面に空いている。覗き込んでみるが、中は真っ暗だ。底が見えない。
 一般常識を得ることなく汁外衛に拉致られたザップであってもこれが異常なことだけはわかる。
 地下に降りて町があるとはどういうことだ。意味がわからない。
「……っつっても、ここしか知らねぇしな」
 ザップは腹を括る。
 適当に歩き続ける、という選択肢もあるのだが、そんな単純なものではないだろう、とも思うのだ。
 汁外衛は言っていた。かつて、ザップを襲ったあの人のようで人でない存在は、血界の眷属、吸血鬼という存在だと。人が住む世界と隣り合う異世界の存在。遺伝子レベルで書き込まれる呪文。そんなものがあるのならば、地面に空いた穴から繋がる町だってあるのだろう。
 軽く地面を蹴る。
 穴に落ちる。
 一秒、二秒、と数えてみたところで、ザップの足は地面についた。
「はっ、マジかよ」
 若干ではあるが声が震える。
 それも仕方のないことだ。ザップが着地した場所は公園の植え込みの傍。人目につかぬ絶好の位置。眼前に広がる風景は、先ほどまでいた秘境とは天と地ほどの差がある穏やかな町並みだ。
 幼い子供が公園を駆け回り、大人達はそれを微笑ましげに見ている。ベンチに座っている若者はノートに何かを書き付けている。
 平穏で、幸福な町だ。
 ザップは上を見る。当然、そこに穴はない。ならば彼はどこから落ちてきたのだろうか。
「考えても無駄か」
 肩をすくめる。
 汁外衛からして人外の臭いをぷんぷんさせているのだ。今更、この程度の不可思議に頭を悩ませても意味がない。わからぬことはわからぬ。気持ちを切り替えよう、とザップは足を踏み出す。
 植え込みを越えると、太陽の光がザップに降り注ぐ。同時に人々の視線も彼に注がれることとなった。
「んだぁ?」
 突然現れたことに対する不審か、しかし、それにしては目が白い。誰も彼もザップに悪い印象を抱いているとしか思えない目をしている。
 正直なところ、ザップは対人関係のことはさっぱりわからない。幼少期の頃から他者と関わる、ということが極端に少なかった。そのため、今も何故、周囲から白い目で見られているのか判別がつかない。
 普通の人間が何に対して不信感や嫌悪感を抱くのか。想像すらできないのだ。
「…………服、か?」
 たっぷり時間をかけて周囲の人間を観察した。
 周りと自分を比べ、おかしなところを探せばいい。それがそのまま答えになる。
 結果、ザップは自分の服装がおかしいのだろう、という答えを導き出した。幸いなことに、というべきか、彼は正解を掴み取っていた。
 成長に合わせて汁外衛が服を調達してくれていたとはいえ、質の良い服ではないしデザインもシンプルこの上ない。修行を経た後ともなれば服はあちらこちらが綻んでおり、何とか服としての形を成しているに過ぎなかった。
「どうすっかねぇ」
 考えてみるが、ザップは世界の常識を殆ど知らない。金が必要、ということは知っているがそれを得るための手段も知らない。遠い昔のように必要とするものを盗んでもいいが、食料品と違って衣類というのはどうにも盗みにくいものだ。
 血法を使えば奪い取ることは簡単だが、できることならば一般人を殺すようなマネはあまりしたくない。面倒ごとになるのが目に見えている。
 何はともあれ、この場にいるのは宜しくない。本能が叫ぶままにザップはその場を離れた。
 公園の外は大通りに面しており、人の目が多い。だが、どんなに発展している町であったとしても裏通りというものは存在しているはずだ。そこに入り込んでしまいさえすれば、多少の異形は目を瞑ってもらえる。
 しばらく走り抜けた末、ザップはようやく落ち着ける裏通りに到着することができた。
 薄暗く、異臭のするそこは昔を思い出させる。
「あー。ようやくあの地獄から解放されたと思ったのによぉ」
 ザップは頭を抱えた。
 ここにいれば、修行のような拷問を味わうことはないだろう。しかし、自由がない。何もできない。何ができるのかがわからない。普通に生きる術など何一つとして知らない。
「……少年」
 自分ではない声。
 ザップは顔を上げる。
 人の気配には気づいていたが、敵意が感じられなかったので放っておいたのだ。まさか、声をかけてくるとは思わなかった。
「んだよ」
「キミ、ずいぶんと変わってるね?
 見た目は悪くないし、まだ未来もある歳に見えるのに、そんな格好してさ、目だけはギラギラして悲壮感がない」
 そこにいたのは女だった。長い髪はパーマがかかっており、ふわふわとして見える。服は胸元が開いており、豊満な胸が強調されていた。キティと似た匂いがする女だ。
「あんまりこの辺りでは見ないタイプ」
 そう言われてもザップにはこの辺りがどこなのかもわからない状況だ。返事のしようがない。
「ねぇ、キミは何してた人かな?」
 好奇心の強い女なのだろう。赤く紅が塗られた唇が楽しげに上がっている。
「言っても信じねぇだろうから言わねぇ」
 常識の知らぬザップでも、自身が経験してきた修行が常軌を逸していることは理解していた。極普通に生きてきた人間に告げたところで嘘だと笑われるのがオチだ。
 適当な嘘をつくという手もあったのだろうが、それを瞬時に選択できるような頭を彼はしていなかった。
「ふーん、秘密かぁ。
 いいね。影のある男って素敵よ」
 冷たいザップの言葉に女はめげるどころか、機嫌をさらに上昇させたらしい。
 彼女は細い指をザップの腕に這わせる。つつ、とした動きは事を知っている者が見れば妖艶なものだった。
「私の家にこない?
 ご飯くらいならご馳走してあげるし、イイことも教えてあげるからさ」
「飯? 本当か?」
 イイこと、というのも気になるが、何よりも飯だ。腹が空いては何もできない。
 初対面の女が食事に何かを仕込まないとも限らないが、弱い毒ならば耐性がついているし、そうでないのならば気配や匂いでわかる自信があった。
 女はザップの反応に、少しきょとん、としていたものの、すぐに笑みを浮かべる。
「本当よ。さ、こっちよ。いらっしゃい」
 ザップの手に指が絡む。
 暖かい。ほんのわずか、空いていた胸が埋まるような感覚を感じた。
 それから、女に誘われるがままに家へ入った。彼女の家は甘ったるい匂いで溢れていたが、部屋は綺麗だった。虫もいないし埃もない。
「いい部屋だな」
「……そう? ありがと」
 素直に言葉にしてやれば、彼女は頬を赤くする。嬉しいのだろう、と判断したザップは自分の言葉が間違いではなかったことに安堵した。
 彼女が用意してくれた食事は、それはそれは美味しかった。感動のあまり、何度も何度も美味いと口にしてしまうほどだ。
「普通の料理よ?」
 女の言葉に嘘はない。彼女が用意したものは、普通のシチューだった。野菜を切り、肉を入れ、ルーを入れて煮込む。それだけのお手軽料理。
 しかし、基本的に野草や獣の肉を焼くか煮るかしかしてこなかったザップからすれば、未知の旨みがそこにはあったのだ。
「キミって本当に不思議で面白い。
 何も知らないのね。ふふ、母性がくすぐられちゃう」
 その日、女は自分の言った言葉を忘れたように、ザップに跨った。何も知らぬザップの身体に指を這わせ、快楽を呼び起こす。手馴れた手つきのそれはプロのものだったのだが、当然彼にそのようなことがわかるはずもない。
 わからぬままに快感の渦に突き落とされ、女はそれに乗じて腰を振る。
 全ての事が終わった後、何のつもりだ、と問いかけてみれば、女は嬉しげに笑った。
「私が始めてかー。嬉しい。
 キミの始めてを貰えたなんて、今まで生きてきて、一番のハッピーかもしんない」
 彼女はそのままザップへ指を伸ばし、彼の頬に触れる。そのまま、自身の唇をザップのそれに重ねた。無論、舌も入れて。
 始めこそ驚きから硬直していたザップだったが、好き勝手に口の中を蹂躙されるのが我慢ならなかったのだろう。すぐにコツを掴み、女を蹂躙する側へと転じてみせた。
 長い口づけの後、恍惚とした表情で女は言う。
「やっぱり、キミは才能があるよ」
「は?」
 才能、その言葉には聞き覚えがあるが、この状況で言われる意味がわからない。
 ザップにとっての才能とは、戦闘に関するものだけだ。
「女の子を骨抜きにしちゃう才能」
 彼女は自分よりも小さなザップの胸に頭を寄せる。
「キミが嫌がるなら私、何も聞かないよ。
 何も知らないっていうなら、全部私が教えてあげる」
 生きていく術も、常識も、馬鹿な女を落とす術も。
 そんなことを言いながら眠りについた彼女をザップはずっと見つめていた。どうするべきかもわからず、ただ、無言で眺め、そのうち、疲労から自身も眠ることにした。
 それからザップは様々なことを女から学んでいった。
 まず始めに教えられたのは、女の名前だ。シェリーというらしい。
「ザップにはこの服が似合うと思うの」
 ボロ着れはシェリーによってそこそこ仕立ての良い服に変わった。
「気づいてるかもしれないけど、私は花を売る仕事をしてるから、夜は家にいないの。
 その間、ザップはこの家を自由にしていいからね! 本もあるし!」
 字が読めないことを告げれば、次の日には簡単な読み書きのための学習帖が用意された。一人のときはそれを開き、学んでみたり、適当に辺りを散策したりしてみた。服装一つで周囲の目は様変わりし、もう誰もザップのことを白い目で見ることはなかった。
 文字を覚える合間に、シェリーは女を落とす術をザップに教えた。それが最も楽で、似合っている、と彼女は笑う。
「ひと目見たときからずっと思ってたんだぁ。
 ザップは私みたいな女に貢がせる才能があるって。
 ギラギラした瞳は格好良いし、ちょっと物を知らないところは母性が惹かれるし、自分は強いってオーラが出てた」
 そして何より、セックスが気持ち良い、と付け足されたのは彼女にとって何よりもの褒め言葉だったのだろう。
 女の扱いに関して気をつけておくべきこと、セックスでの自衛、テクニック。シェリーは実践を踏まえてザップに伝授していった。一つ一つ教えられていくのは修行と似ていたが、苦しさと快楽という真逆の性質がそこにはある。
 一月もすればザップはある程度の読み書きを覚え、セックスの仕方や女の扱いも覚えた。シェリーの他に家を貸してくれる女を見つけるほどまでになっていた。
 新しい女ができたことをシェリーは勘付いているようだったが、何かを言ってくることはなかった。むしろ、どことなく満足げでさえあったように思える。
「殺人事件?」
 普通の生活、といえるかどうかはわからないが、少なくとも人間の中で生きていくことにも慣れてきたある日のことだ。シェリーはザップに言った。
「そう。最近、殺人事件が頻発してるのよ。
 どうやってるのかはわからないらしいんだけど、身体はバラバラに引きちぎられてたって話しよ」
 だから夜は気をつけて、ということを伝えたかったのだろう。
 しかし、ザップは全く別のことを考えていた。
 吸血鬼。それがこの辺りにいるのかもしれない。そうでなくても、異界の生物がいる可能性は高い。話を聞く限り、人間業ではない。
 ザップは自分の血が高ぶるのを感じた。
 秘境を離れて今まで、すっかり忘れていた闘争心。生活に慣れることに必死すぎた。
 これは抑えられない、とザップは密やかに笑う。あの日、自分を放って出て行った汁外衛はこれよりも強い衝動に押されたのだ。今ならばはっきりとわかる。これは止めることのできないモノだ、と。
 シェリーが仕事に出た隙を狙い、ザップは夜の町に繰り出す。神経を研ぎ澄まし、町中の気配を探るようにして歩けば、標的はすぐに見つかった。
 半分人の姿を残しただけの異形。吸血鬼ではないようだが、異界の存在だ。
「おうおう。お前が最近噂の人殺しか」
「好奇心に誘われた馬鹿か……」
 異形は嫌な笑みを浮かべるが、ザップはそれを軽く流す。
 余計な言葉なんぞいらない。今欲しいのは、戦闘による興奮だけだ。
「刃身の壱、焔丸」
 指先を歯で噛み千切ると、そこから溢れた血液が刀の形を作る。握るのは久々の武器だ。それだけでザップの背筋にはぞくぞくとした快感が走った。
 セックスでは感じられぬ部分の快感。たまらない。耐えられない。
「何だ貴様――」
 言葉を許さずに踏み込む。
 ギラギラとした瞳は赤く染まっていた。
 数度、刃を打ち付け、敵からの反撃に身体を逸らす。楽しい、だが足りない。弱すぎる。
 勝負がつくまで、そう時間はかからなかった。気づけば終わっていた、というレベルの早さだ。ザップは消滅していく異界の身体を眺めながら、ため息をつく。
 気づいてしまった。
 自分も戦わずにはいられない人間なのだ、と。それも、強者との戦いでなければ満足できない。
「出て行くか」
 強い敵は探さなければならない。こんなところにいつまでもいてはいけない。自分から探さなければ。そうしなければ、内側から湧き出る衝動を留めておけない。
 ザップはシェリーにも他の女達にも別れを告げた。全員、ザップを引き止めるようなマネはしなかった。やっぱり、という顔をして、元気でね、と見送ってくれた。
 それからザップは様々な町を渡り歩き、その度に女を捕まえた。彼女達は優しくザップを抱きしめ、衣食住を提供してくれる。宿無し仕事無しの身にはありがたい限りの存在だ。
 また、彼女達は様々なことをザップに教えてくれた。
 派手好きケイシーは移動にはバイクが最適だ、と言って運転の仕方を教えてくれた。
「本当は免許がいるんだけどねー」
「免許?」
「ザップは気にしなくていいよ」
 本来はいる、と言いつつ、ケイシーはザップに免許を取るように言わなかった。取れるような人間ではない、と何となく察してくれていたのだろう。
 最終的には、捕まらなければ何ら問題ない、というところに落ち着いた。
 彼女は別れる前に新品のバイクをプレゼントしてくれるほど、気前のいい女だった。
 売れっ子のイーデンはタバコくらい吸えなきゃ男じゃない、と言いつつ、葉巻をザップに手渡した。
「タバコもイイけど、一味違う男のほうが、女は好きなのよ?」
「そーいうもんか」
 美味いか否かはわからなかったが、少なくとも拒否反応が出るものではなかった。火を扱うザップと相性がよかったのだろう。イーディンはオマケに、とシンプルな銀色のジッポをくれた。彼女からしてみれば、葉巻用だったのだろうけれど、送ってもらった張本人であるザップは、血法を使うときに便利だな、と思うばかりだった。
 ロマンチックなことが好きなラナはザップにファミリーネームを与えた。ベッドを共にした日の夜、彼女がザップにファミリーネームを問うたのだ。
「私、セックスした人のファミリーネームと自分のファーストネームを合わせるのが好きなの」
 まるで結婚したみたいに思えるから、と頬を紅潮させた彼女はとても可愛らしかった。
 しかしながら、ザップにファミリーネームは存在しない。ザップというファーストネームですら汁外衛から与えられたものなのだから当然だ。
 そのことを正直に伝えたところ、ラナは一瞬、驚愕の表情を浮かべたものの、すぐにふにゃりとした笑みに変える。
「なら、レンフロって名乗って欲しいなぁ」
「レンフロ?」
「そう。私ね、ラナ・レンフロっていうの」
 特にこだわりがあるわけでもなかったのでザップは素直に頷いた。その日以来、ザップは名前を聞かれた際、自身を「ザップ・レンフロ」と名乗るようになる。
 知的美人のマクシーンは年齢を与えてくれた。ふとした話題から年齢の話しになったとき、ザップが自分の年齢を知らない、と零したときに告げてくれたのだ。
「ティーンを超えてるって言っておけば、色々な面倒から逃れられるわ。
 そうね、とりあえず、今日から二十歳ってことにしておきましょ」
 この時、既に汁外衛と別れて数年が経過していた。身体はさらにたくましくなり、成人男性と言っても疑われない程度にまでなっていた。
 この頃になると、ザップは商売女以外でも、自分が近づける女、というのを見極める術を覚えはじめていた。基本的には後腐れのない関係を好み、そうでない女には手を出さずにいた。
 ただ一人、あちらからザップのもとに歩み寄ってきたメロディは別枠だ。声をかけられたから答えた。身体を重ね、求められれば甘い言葉だって吐いてやった。
「ねぇ、ザップはいつがお誕生日なの?」
 幸せな家庭に育ったメロディは、何の気なしに聞いただけなのだ。好きな人の誕生日を知りたい。そうして祝ってやりたい、という、極普通の感性からきた質問だ。
「……さあ」
 しかしながら、ザップは普通ではなかった。
 誕生日などというもの事態、最近知った。生まれた日。それをわざわざ祝う、という発想は今だ存在していない。
 そのことを知ったメロディは落ち込み、ごめんなさい、と口にした。彼女は自分が得ている幸福をそうと知らずに教授してきたのだ。貧困や悲しい出来事は全て紙面や画面を通しての物語でしかなく、自分を含めた周囲にある世界は当たり前の幸福で満ちていた。
「なら、夏を誕生日にしましょ」
「夏?」
 えらく大雑把だな、とザップは思った。
 ファミリーネームや年齢と同じく、誕生日も適当につけてもらえるものだとばかり思っていたので、少々肩透かしをくってしまう。
「冬は寒いもの。寂しさと寒さは似てるから、せめて誕生日くらいは寂しくないように」
 ザップには寂しいがわからない。そう感じたことがないのか、気づけていないだけなのか。どちらにせよ、彼が寂しいという感情を知覚することはない。
 だから、別に冬が誕生日でもかまわなかったのだが、一応メロディの言葉を肯定してやる。女というのは肯定が大好きだ。
「夏のいつがいいんだろうな」
「それはあなたが決めて」
 メロディは微笑む。
 夏であればいつでもいいのだ、と。
「でも、決して何かの記念日と一緒にしては駄目よ。
 誰かと出会えた、人生が変わった、そんな日を誕生日にしては駄目」
「何でだ?」
「誕生日というのは、それだけで大切で特別な日なの。他の付加価値なんて必要ないわ」
 それに、とメロディは目をわずかに伏せる。
「出会えた人が嫌いになってしまったり、変わった人生が良くないものだったとしたら、誕生日の度に悲しくなってしまうでしょ?」
 彼女のいう言葉は、殆どわからないことだらけだった。
 誕生日の意味価値も、悲しみも寂しさも、ザップにはわからない。きっと、それを口にすればメロディはまた悲しげに謝ってくれるのだろう。だが、ザップはそれを望まない。
 何せ、彼は自分を不幸だとはこれっぽっちも思っていない。客観的に見て、自分の人生が変わっている、劣悪だった、というのはわかるが、それを受け止めた上で、やはり彼は「幸せ」だった。
 キティの死体の傍にいたときのことも不幸だとは思わない。わからないことだらけの人生だったとしても、ザップは幸せなのだ。
 こうして、ザップはファーストネームの他にも多くのモノを得た。戸籍こそ存在していないが、口に出す分には十分人並みの情報が揃えられた。
 意外と生きていく、というのは単純で簡単だ。ザップは鼻歌交じりにそう思う。空っぽだった身体の中に様々なものが詰め込まれた。それでも、女達からしてみればザップには穴が空いているらしい。そこを満たしてやりたい、私こそが、と思うのだ、とアニーは言っていた。女は自分より幸福な者が嫌いなのだと、だからザップを愛するのだと。どれだけ満たされていると自分が感じていても、その実、穴ぼこで可哀想で、それに気づかない彼が愛おしいのだ。
「その穴は簡単には埋まらないわ。
 だって、それは本来、できるはずのないもの。生まれ落ちたその瞬間から、そこは埋められるの。私だって埋まってる。だから、もしもその穴ができてしまったら、埋められないまま大きくなってしまったら、人は一生その穴を埋めるためだけに生きなければならないの」
「オレは別にその穴とやらのために生きていくつもりはないぜ」
「そう思ってるだけよ」
 アニーは笑う。
 気づかないことこそ不幸であり、幸福だと。
「ザップの穴が塞がったら、きっと今みたいに女の子は寄ってこなくなるわ」
「なら、ずっと空いたままでいい」
 葉巻の煙を吐き出す。
 女がザップの周りから消えれば、それは死活問題だ。宿も食べる物もなくなってしまう。そうなるくらいならば、あるのかどうかもわからない穴など空いたままであればいい。
「あら、大丈夫よ。
 もしも穴が埋まったなら、あなただって他の女に見向きもしなくなるわ」
 生まれたときに空いてしまった大穴を埋めるには、本当の愛とやらが必要らしい。それを得たのならば、ザップに仮初の愛は必要なくなる。愛した人のため、愛してくれる人のため、真っ当に生きるようになる。
 アニーは謳うように語った。
 それが事実であれ虚構であれ、ザップにはただの夢物語だ。
 そんな人間が現れる瞬間など、紙幣一枚の厚さほども思い浮かばないのだから。
 ザップは飽きもせず爛れた生活を送っていく。女に囲まれ、一宿一飯とセックスを得て、噂話のような情報を頼りに異形を狩る。どいつもこいつも弱すぎて話しにならなかったが、戦闘欲はそれなりに落ち着けることができている。
 だが、とある日のことだ。ザップは今まで見たこともない異形と対峙していた。人の姿をかろうじて保とうとしつつも、異物を隠しきれない姿は実におぞましい。奴はそれなりに強く、さしものザップも苦戦を強いられていた。
 とはいえ、それすらも興奮材料の一つにしかならないのだが。
 指先を噛み切ったことで流れる血を用い、刀を形作る。それを振り回し、異形の身体を削り取っていく快感は何事にも変えがたい。
「退け! 青年よ!」
 お楽しみの最中、どこからともなく、男の力強い声がした。いくら目の前の戦闘に没頭していたとはいえ、他者の気配に気づかぬような失態を犯したことはない。そう、今、この瞬間以外は。
 声に驚きつつも、ザップは後ろに跳躍した。そうしなければならない、と理性とは違う部分が告げたのだ。ザップは自身の本能を信じている。そうしろと叫ぶのならば、それに従う以外の選択肢はいらない。
「ブレングリード流血闘術、百十一式ー十字型殲滅槍!」
 途端、轟音が響いた。地面を抉る音と異形が潰れる音。それらによって異形自身の悲鳴は全てかき消される。
 ザップはその光景を見ているだけだった。他に手や口を出す隙など微塵もなかった。獲物を奪われた、と理解してもなお、彼は口を閉ざし、直立していること以外できやしない。
 立ち込める土煙が収まったとき、そこには男が一人立っているだけだった。
「大丈夫だったか?」
 突如として現れたその男は、かなり体格のいい大男だった。真っ赤な髪と口を閉じていても見える犬歯は彼の強さを示しているとしか思えない。それでいて、眼鏡の向こう側にある目は澄んでいた。誠実さと実直さが如実に見て取れる。
 思わずザップは彼から距離を取ろうと後ずさった。自分が関わってこなかったタイプの人間だ。そして、おそらくは相入れぬ存在。綺麗な瞳に取り込まれてはいけない。きっと、二度と泥にまみれたこの場所に戻れなくなる。ザップは恐れたのだ。現状を脅かされる可能性に。
「む、どうした。まさか、巻き込まれて怪我てもしてしまったか?」
 男は慌ててザップとの距離を詰める。当の本人としては、あの程度の余波にやられるような自分ではないので放っておいてくれ! と叫びたい気持ちでいっぱいだ。実際にそういうことができなかったのは、男の真っ直ぐな目に押されてのことだった。
「落ち着けクラウス。彼が何者かはわからないが、こんなところに一人でいて、あの化け物と対峙していたんだ。そう簡単に怪我なんてするものか」
 続いて現れたのは、目じりから頬ににかけて傷のある救世主。
 彼の言う通りだと言わんばかりにザップは何度も頷いた。流血はしているが、それは戦うために自分で傷をつけた部分だけ。刃身を解除すれば傷も塞がる。
「そうか。ならばよかった」
 いかつい男は心底安心した、という声を出す。
 やはり苦手なタイプだ。これはさっさと身を退いたほうがいいだろう。獲物を奪われたのは癪だが、そういうこともある。汁外衛は血界の眷属を初めとした異形の者を排除し、世界の均衡を保つために動く組織がいくつもある、と言っていた気がする。彼らもそんな組織に属しているのだろう。
「ところで」
 逃げよう、と足を退いたザップに詰め寄ってきたのは、救世主だと思っていた男だ。顔は笑みを浮かべているが、目が全く笑っていない。こちらは関わったことのある人種ではあるが、それでも苦手な部類だ。できることならば関わることを丁重にお断りしたい。
「キミのソレ、血界の眷属に対抗する技だよね?
 初めてみるタイプのものだけど、どこの流派だい? 是非教えて欲しいな」
 下手に出ているようで、その実、嘘も誤魔化しも許さない声。
 ザップは目線を左右にやり、逃げ場を探すが、目の前にいる優男には隙がない。血法を用いて逃げたところで、後ろに控えている大男がこちらを捕まえるために動くだろう。あの威力の技だ。直撃すればただではすまない。
「……斗流血法」
 流派を答えたところで、何か問題が起こるとは思えない。
 ある程度の対策をとられてしまう危険性はあるだろうけれど、あの大男の技を持ってすればちゃちな小細工など必要としないはずだ。
「斗流血法?」
 優男は驚いた顔をする。
 ザップは訝しげな目を彼に向けた。何をそんなに驚くことがあるというのだ。
「つまり、キミは、あの血闘神、羅獣汁外衛賤厳殿の関係者、ということかい?」
 流石にザップを汁外衛本人だとは思えなかったらしい。見るからに年若い姿へ、血闘神の二つ名を付与することはできなかったのだろう。
「は? 血闘神? あのボロじじいが?」
 ザップは顔を歪める。
 汁外衛のことに関しては修行が拷問のように厳しいクソジジイ、という認識だ。流派のことや、その他の二つ名についてなど聞いたこともない。
「……彼は自分を研鑽するためだけに動いてる、と聞いていたのだが。
 まさか、弟子がいるとは……」
 彼は顎に手を当て、何かを考えているようだった。
 今ならば逃げることもできるだろう、とザップがわずかに足を動かす。
「よかったら、キミの名前を教えてはもらえないだろうか?」
 にこやかな笑み。
 それに似つかわしくない冷たさがザップの足を襲う。
「んだこりゃ!」
 彼の足は凍りつき、地面と一体化している。よく見てみれば、その氷は目の前の優男の足元から繋がっているではないか。大男のインパクトが強すぎて警戒するのを忘れていた。考えてみれば、異形のもとにやってきているのだ。優男にも戦う力があるのは当然のことだった。
「エスメラルダ式血凍道。以後、お見知りおきを」
「今後一切、関わるつもりはねぇよ!」
 ザップが叫ぶと氷が足元から膝上まで侵食を始める。どうやら口答えは許さない、とのことらしい。優男の後ろにいる大男の方が若干困った顔をしているが、止めてくれる気配はない。
 数拍の間をおき、ザップは口を開く。
「ザップ。ザップ・レンフロ」
 どうせ適当につけられた名前だ。
 誰に知られたところで困るものではない。いざとなれば名乗る名を変えてしまえばいい。そう考え、ザップは自分の胸の裏側がかすかに痛んだような気がしたが、目の前の現実から目を逸らすわけにもいかず、痛みを一蹴した。
「なるほど。ザップ・レンフロか。ふむ。今日はこのくらいにしておこうかな」
 その言葉と同時に氷が溶ける。固体は液体になるでもなく、まるでそこには初めから氷など存在していなかったかのように掻き消えた。
 拘束が解かれ、自由になったザップは警戒したまま後ろに下がり、十分に距離をとったと確信できてから逃げ出す。敵前逃亡を恥とは思わない。面倒は避けたいものだし、死ぬのはあまり楽しくない。最期の時が来るのは怖くないし嫌でもない。ただ、そこに至る寸前まで、あがいてみるのも悪くないとも思っている。
 どうせ、この町もそろそろ潮時だと思っていた頃合だ。別の場所へ移動すれば会うこともないだろう。世界は広い。それこそ、同じようなことをして回っているはずの汁外衛に未だ一度として出会っていないほどに。
「……で、何であんたらがここに?」
 出会うことはないだろう、そう考えて一ヶ月。
 ザップの目の前には例の優男と大男、さらに今回は胸は大きいが性格はキツそうな黒髪の女までついてきている。前回よりも人数が増え、脱兎はますます困難になる。
 大怪我を覚悟してでも前回のうちに殺しておくべきだったか、とザップは心の内で吐き捨てた。
「そう嫌そうな顔をしないでくれ」
 優男は相変わらず、嘘っぱちの微笑みを貼り付けている。
「何の用だ」
 今回は異形の化け物と対峙しているわけではない。偶然にも出会ってしまった、という風でもない。ならば、彼らのほうがザップに用事があって接触してきたのだ、と考えるのが自然だった。
 社交辞令も腹の探りあいも面倒だ。言いたいことがあるなら言えばいい。それが死の宣告であったとしても、ザップは立ち向かう自信がある。
「そうだな。キミはまどろっこしいことが嫌いそうだから単刀直入に言わせてもらおう」
 そう言うと、彼は懐から一枚の紙を取り出した。丁寧に折りたたまれていたそれを広げていく。
「ザップ・レンフロ。年齢不明。生年月日不明。住所不定。無職。血液型不明。性別男。
 一月前からこの町にきており、女の家を転々として回る生活をしている。一度、異界の生物が周辺に出現した際はそれを撃退。
 現在、懇意にしている女性はウェンディ・ウォーカー、ターニャ・タルボット、ティナ・ソーントン、ロンダ・ラッセル……。ずいぶんと多いな全員を読み上げていると日が暮れそうだ。
 まあ、特に入り浸っているのはこの四人というところか。昨日はティナの家で食事をし、性交渉を行った後に彼女から貰った金で昼食、その足でロンダのもとへ、か。いやあ、羨ましい生活だ」
 つらつらと述べられていく言葉にザップは目見開く。年齢や住所やらはどうでもいい。知られたところで困ることはないし、調べようと思えばそういった結果が簡単に出てくるだろうこともわかる。
 しかし、その他の、この町での出来事というのはそう簡単に調べられるものではないだろう。
「一ヶ月、キミのことを監視させてもらった」
 あっさりと告げられた真実は法に触れるものであったが、そのことを知らないザップは言い知れぬ不快感と苛立ちに顔をしかめるだけに終わる。
「その上で言う。
 ボクらの仲間になってくれ」
 優男が手を差し出す。
 了承してくれるのならば握手を、という意味だろう。
「お断りだ」
 ザップはその手を強く叩き落す。
 元より、優男の仲間になるつもりはないが、一ヶ月も監視されていた、ということを聞かされてはなおさらに了承できない案件だ。
「そこのクソ猿も嫌がってますし、帰りましょう」
 無言で成り行きを見守っていた女が口を開いた。
 顔立ちは美しいけれども、そこから出てきた言葉は美しいと表現できるものではない。
「あ? 誰が猿だって、このクソ女」
 基本、ザップは女に優しい。
 彼女達が養ってくれている、というのも理由の一つではあるが、大抵の女は可愛いし、どこか安心感を与えてくれるからだ。しかし、この女は違う。決してザップを暖かく包み込んではくれないだろう。それどころかきつく突き放してくるのが目に見えている。こちらが強い言い方をすることに何の問題があるというのだ。
「あんたよ、あんた。
 発情期の猿みたいに腰振っちゃって。
 気持ち悪いったらありゃしない」
 眉間に刻まれた深い皺は、彼女の不快感を示している。声も低く、瞳はゴミ溜めを見るかのごとく。
「まるで見てたみてぇな言い方するじゃねーか」
「見てたのよ」
「は?」
 素早く切り返された言葉にザップは二の句を飲み込む。
 見ていた、と女は言った。何を、と問えば、ザップと女のセックスを、という答えが返ってくるのだろう。
 だが、それならばザップは何故自分がそのことに気づけなかったのか、という疑問を抱かねばならない。否、そもそも、優男が監視していた、と言っていたが、ザップはそんな気配を一切感じなかった。
 これでも他者の気配には敏感なつもりだ。気を緩めていたとしても、四六時中監視されていれば嫌でも気づく。
「彼女は不可視の人狼。諜報ならお手のものさ」
 な、と優男が言えば、ザップの目の前で女の姿が薄れてゆき、そのまま掻き消える。
 残されたのは風景だけで、女の姿も気配もこの場から全て失せてしまった。
「な……んだ、こりゃ」
 周囲を見回してみるが、やはり女の姿はない。
 瞬間的に長距離に移動したにしても、そんな動作は感じられなかった。
「この一月、あんたのクズっぷりは嫌ってほど見せられたわ」
 突如として出現した気配は、ザップの真上。彼の頭上だった。
 驚きのままに顔を上げると、女は軽く跳躍して地面に舞い降りる。重力も彼女自身の体重も感じさせぬ身のこなしだ。実際、ザップは自分の上に彼女が乗っていたはずなのに重さを感じなかった。紙一枚でもあれほどの無は体験できない。
「女に貢がせて、それで平然としてるクズっぷり。
 仕事じゃなかったら三回は殺してた」
 脅しでもなんでもなく、女ならばそれができる。ザップは背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
 気配がない。存在がない。突如現れ、心臓を銃かなにかで打ち抜けばそれでいい。これ程簡単な殺しはそうそうないだろう。
「落ち着けチェイン」
 優男は女に声をかける。
 ふにゃり、とした笑みは、存外嘘っぽくないもので、ザップは意外だ、と思わずにはいられない。どうやらあの腹の底が見えない優男でも、仲間にはそこそこ心を開いているらしい。
「悪い話じゃないと思うんだよ。
 ちゃんと話しを聞いてくれさえすれば、キミにもそれがわかってもらえると思う」
 また仮面の笑みに変わる。
 仲間になってくれ、と言ってはいるが、了承の言葉を口にしないザップに底を見せるつもりはないということか。
「順番が逆になってしまって申し訳ない。ボクと、ボクの仲間、そして組織についてもちゃんと説明させてもらうよ」
 世界は本当に広い。
 あの外道師匠のもとで修行をこなし、ザップは世界で一番、とは言わずとも、かなりの手練になったと自負していた。簡単にやられたりはしない、と。
 けれども、それは間違いだった。
 一般人と比べれば、ザップは強い。だが、目の前にいる男達のような、影に潜む連中と戦ったとき、今までのような余裕を持っていられない。純粋なパワーの違いがあり、相性の問題があり、対応を熟考しなければならない存在がいる。それも、今、眼前に。
「ボクはスティーブン・A・スターフェイス。
 こちらはクラウス・V・ラインヘルツ。彼女はチェイン・皇。
 全員、対血界の眷属組織「牙刈り」のメンバーだ」
「「牙刈り」……」
 聞いたことはあった。
 汁外衛が外の世界について話してくれたときに出てきた名前だ。
 世界にいくつかある秘密組織の中で、特に対吸血鬼に特化した組織。構成員にはザップや汁外衛のように血を用いた技を使うものが何人も在籍している、と。ザップの記憶が確かならば、汁外衛は何度か「牙刈り」の上層部直々に組織への所属を打診された、と言っていたはずだ。
「対血界の眷属特化型人間兵器というのは数が少なくてね。
 厳しい修行を必要とする流派、適正が必要な流派、天賦の才が必要な流派……。
 条件は様々だが、どれもが簡単に成しえるものではない」
 カツン、と足元から音がした。
 ザップは瞬時に自分の指先を噛み、血を溢れさせる。
「常に人手不足なんだ」
「だからといって、そんな奴を組織に入れる必要はありませんよ。
 碌でもないトラブルを連れてくるに決まってます」
 チェインは冷たくいい放つ。しかし、彼女の声よりも今はザップの足元のほうが冷たい。
 迫り来る氷に自分の血を巻きつけ、ジッポで火をつける。多少の火傷は覚悟の上だ。
「何を言う。素行はともかく、実力は折り紙つきだ。
 あの血闘神、羅獣汁外衛餞厳殿の弟子でもある」
 ザップの足に絡み付いていた氷が溶ける。人知を超えた技で作り出された氷とはいえ、同じく人知を超えた炎の前には自然の法則を取り戻すよりほかに術がないらしい。
 だが、スティーブンもそれを黙ってみているわけではない。氷が溶けきる寸前に、自身の足をもってしてザップを蹴り上げる動作をする。無論、ザップはそれを正面から受けることなく避けた。
「「牙刈り」に所属すれば、今よりも効率よく戦う相手を見つけることができるよ。それも、あんな雑魚とは違う。血界の眷属とだって戦う機会がある」
 氷が突き出る。炎が飛ぶ。
 軽やかに話しながらも、散乱していく技は命を奪いにかかっていた。
「給料だって出る。女を経由しない金というのもなかなかにオツなものだよ」
 ザップは焔丸を振り回しながら考える。スティーブンの言う通り、悪くはない提案なのだ。金は女から手に入るのでまだいいとして、敵を効率的に探せる、というのは甘美だ。
 今のやりかたでは、一ヶ月に一度戦えればいいほうで、それも弱い雑魚ばかり。血界の眷属レベルの化け物と戦うことなど一生のうちに一度あるかないか、となるに決まっている。
 スティーブンもチェインも気に入らない。組織に縛られるのも腹立たしい。
 しかし、楽しそうだ。
 身の内側にある戦闘欲求がうずうずと悲鳴を上げている。
「ちなみに」
 スティーブンが攻撃をやめる。つられるようにしてザップも手を下げた。
「一応、「牙刈り」は秘密組織なんでね。
 情報は部外秘なんだ。了承を得られないなら、上司に報告しなくちゃいけなくなる。
 ボクもクラウスも情状酌量を頼んではみるけどね」
 つまり、相応の処理が待っている、ということだ。
 二人の戦闘を眺めていたクラウスは、任せろ、といわんばかりの表情をしているが、信用ならない。彼らの上司がクラウスのような性根を持っているとはとてもではないが思えない。適当に流され、はぐらかされ、彼の知らないところでザップは処理されるのだろう。
 「牙刈り」とやらの総戦力は計り知れない。クラウスレベルの人間が何人もいるのならば、それはただの恐怖だ。
 生か死か。組織に縛られる不自由か追い掛け回される不自由か。選べる選択肢はクソみたいなものしかない。
 チェインは不満げな顔をしているが、そんな顔をするのならばスティーブンを説き伏せてみせろ、とザップは思わずにはいられなかった。
 焔丸を解き、あふれ出た血を体内へ戻す。
「……条件がある」
「叶えられる範囲なら」
 スティーブンは微笑む。
「そこの……クラウス、とか言ったな」
 ザップはクラウスを指さした。
「オレが暇なとき、いつでもあんたに勝負を申し込んでもいい、ってんなら、入ってやるよ。「牙刈り」とやらに」
 クラウスのパワーは単純で魅力的だ。
 様々な形状を駆使することで戦闘を有利に進めるザップとは戦い方が違う。だからこそ惹かれるものがある。血界の眷属と戦えずとも、不自由に悩まされようとも、あの圧倒的なパワーと打ち合えるのならば悪くはない。想像するだけで垂涎ものだ。
「私とか?」
 突然のご指名にクラウスは目をぱちくりさせる。立ち振る舞いからして気高さを感じる男なので、その身体に宿したパワーとは裏腹に暴力を好まない性格なのかもしれない。ザップはそんな風に考える。もしもそうであるならば勿体無いことだ、とも感じた。だが、人間というのは第一印象と本人の地が大きく異なっていることがままある。
 クラウスという男に関してはまさにそれであった。
「よかろう。このクラウス・V・ラインヘルツ。いつでも相手になろう」
 両の拳をあわせ、戦う意思が強調される。
 その姿はどこをどう見ても喜々としており、非暴力主義だと思うことは不可能だ。
 一瞬、あっけにとられてしまったザップだが、それならそれで、とばかりに気を取り直す。足に力を入れ、力いっぱいに前方向へ跳躍。クラウスとの間に空けられていた空間が一瞬で消えていく。
 ザップとクラウスの顔が間近に迫ったとき、焔丸は使い手の気持ちをそのまま表現するかのように煌々と輝き、今まさにクラウスの命を刈り取らんと振り上げられていた。
 並のモノならば、この時点で己の死を悟るか、それよりも先に絶命するか、のどちらかだっただろう。
 しかし、クラウスは並ではない。
 焔丸を握る右手を自身の左手で逸らし、そのまま右拳をザップのみぞおちに叩き込む。かと思えばすぐさま地面に叩きつけるように力の方向を変え、膝を用いて彼の背中を強打する。
 瞬きのうちの出来事だった。
「ぐえっ」
 もしも、クラウスの行動に殺意が伴っていたならば、ザップはこのような声を上げることはなかっただろう。それこそ、焔丸をいなされた時点で形状を変え、次の攻撃に移るくらいのことをしてみせたはずだ。
 それをしなかったのは、反撃してきているはずのクラウスに、欠片の殺意も敵意も感じられなかったからだ。鋭い直感を持つザップは、腕と腕が交わった瞬間に理解してしまえた。つい先ほど、条件付で仲間になった自分をクラウスは既に信用しているのだ。それも全面的に。
 そんな気の抜けるような事実に気づいてしまっては、こちらの殺意も薄れるというもの。
 あっけなく潰されたザップは呻き声と共に地面にそっと置かれる。
「流石クラウス。見事なお手並みだったよ」
 スティーブンは軽く手を叩き、クラウスを褒め称える。そのままザップに近づくと、地面に膝をつけて痛みに身体を痙攣させている彼に告げた。
「キミが彼と勝負することを止めはしないよ。
 でも、血法を使うのは禁止だ。被害が尋常ではなくなるからね。
 男なら素手で勝負したまえ。それでクラウスが負けるようなことがあれば、ボクらはキミを追うことはしないよ。追ったところで全滅させられるのがオチだろうし」
 返事ができる状態ではなかったのだが、スティーブンの中ではこの約束が了承されたことになった。別段、ザップとしても素手でやりあうことに異論はなかったので、その後も特に文句をつけることはなく、血法を使わずに襲撃することを日課とした。
 こうして、ザップは、約一名の不興を買いながらも無事「牙刈り」の一員となったのであった。
「とりあえず、明日、この時間にこの場所にきてくれ。
 仲間にキミのことを紹介したい。あと、できればキミの連絡先を教えてもらえるかい?」
 チェインを用いておよそ一ヶ月間ザップを監視していた男だ。当然、他の情報についても手を尽くして調べたに違いない。そうでなければ、知ってしまった者を処理しなければならないような秘密組織に勧誘などできまい。
 そこまでしても、ザップという男には何もなかった。携帯電話を所持していることはチェインから聞いていたが、肝心の顧客情報が見つからなかった。同姓同名こそ見つかれども、ザップ自身の情報は偽名等々の可能性も考えて調査したのだが、終に見つかることなく今日を迎えている。
 どうにかクラウスから受けた攻撃の痛みが消え始め、ザップは上半身を起こす。ズボンのポケットに入れっぱなしだった携帯電話を取り出すと、あろうことかそれをそのままスティーブンに手渡した。
 元より、下手な嘘をつかれないために携帯電話を借りて番号を確認するつもりだったスティーブンではあるが、まさかこれほど無防備に渡されるとは思わなかった。今時、小さな携帯電話とはいえ中に入っている情報は決して小さくない。
「オレ、使い方とかよくわっかんねぇから、適当に見てくれ」
 きょとん、とした顔をさせられたのはスティーブンだ。
 見たところ、ザップの外見はティーンか、歳をとっていたとしても二十代前半、といったところだ。その歳の人間というのは、必要不必要に関わらず、この小さな機械を手に持ち、愛し、使用していると相場が決まっている。そうできないのは余程の貧困層かもしくは秘境の民だ。
 少し口を挟みたくなってしまったが、良識のあるスティーブンはそれを飲み込む。「牙刈り」に所属している面々は、誰も彼もが一筋縄ではいかない。触れられたくない過去を持つ者も多い。ザップもその一人になるだけだ。
「あと、それ、マーラーから貰ったヤツだから、あいつと別れたら使えなくなると思う」
 何気なく吐かれたその言葉に、スティーブンは受け取った携帯電話を握りつぶしそうになった。
 常識がない、どころの話ではない。聡明な彼は、ザップが極普通の人間が、極普通に得られる知識の殆どを持っていないのだろうことを把握した。
 きっと彼は、契約というものの存在さえ知らない。携帯電話を買う際に必要な情報や、かかる料金、携帯会社の名前すら一つも知らない可能性がある。
 そういう人間がいることを否定しないが、いざ目の前に現れると戸惑ってしまう。その対象が、一見しただけではとてもそういった類の人間に見えなければなおさらだ。
「……わかった。
 ところで、キミについて少し聞いても構わないかい?」
「あ?」
 本来ならば、こんなことを言うつもりはなかったのだ。
 「牙刈り」には暗黙のルールがある。
 過去を詮索しない、個人の情報を引き出そうとしない。それは、円滑に組織を回すためのルールであり、薄暗い過去を持つメンバー達の心を守るためのルールでもある。当然、このルールは新米のザップにも適応されるべきだし、スティーブンもそのつもりでいた。
 しかし、それを良しとするには、最低限の常識を本人が知っている必要がある。つまり、「牙刈り」の手を借りずとも最低限の地盤を整えられる人間である、という条件が大前提にきているのだ。そして、それは今まで問題なくなされていた。国を捨てた人間であろうが、人として生きることを諦めたモノであろうが、元犯罪者であろうが、全員が自分というものを作り出し、そうあれるようにしていた。時折、「牙刈り」という大きな組織の力を借りることはあるが、それだって自分達の頭で考え、その力を利用しているだけだ。実質、彼らは誰にも、仲間にも組織にも、自分の不透明な部分を見せない。巧妙に隠し、上辺の色を披露してくれるだけ。
 ザップにはその最低限がない。
 下地を作る能力どころか、その下地自体を理解していない有様だ。
 不本意ではあるが、一種の緊急事態だ。暗黙のルールを破るのもいたしかたがない。
「そんなに警戒しないでくれ。簡単なことさ。
 誕生日とか、血液型とか、年齢とか……。そういうものを教えて欲しいだけ。
 普段、女の子に聞かれたときにどう答えてるのか教えてくれ」
 わずかな時間、ザップは考え、すぐに頷く。
 どうせ作られた情報達だ売り渡したところで困ることはない。
 誕生日は夏の適当な日を答え、年齢はマクシーンと出会ってから数年が経っているような気がしたが、細かいことは覚えていないので変わらずに二十歳だと言った。血液型に関しては素直に知らないし考えていない、と口にする。
「なるほど、わかった。
 血液型は適当に決めるようなものじゃないから、今度うちで検査しよう。血を用いて戦うのだから、輸血を必要とすることもあるだろうし」
 手持ちの手帳にザップの言葉をメモしていたスティーブンは、最後にちらりとザップの後方にあるバイクへ目をやった。
「……ところで、キミ、免許は?」
 ないだろう、とわかっていながらも聞かずにはいられない。
「捕まらなきゃ問題ねぇだろ?」
「あぁ、うん。やっぱりそうか」
 一人で行動していた時ならばそれでよかったかもしれないが、ザップは晴れて秘密組織の仲間入りだ。つまらないことでその身を拘束されてはたまったものではない。
 スティーブンは遠い目をしながらもゆっくりと立ち上がり、待機していたクラウスとチェインに声をかける。
「今日のところは帰ろう。
 ザップ、キミは明日、遅刻をしないように」
 その言葉にザップは軽く手を振って返事をする。
 どうせ明日も女の家をふらふらと渡り歩くだけの身だ。予定は何もない。身の内に燻る欲求を晴らすため、またはスティーブンという腹の中で恐ろしい怪物を飼っている男の逆鱗に触れぬため、時間と約束は守ったほうがよさそうだ。
「――と、言うわけで、彼が昨日、我々の仲間になったザップ・レンフロだ。
 対血界の眷属特化型人間兵器でもある。戦闘力は確かだが、色々と不慣れなことも多いだろうから、サポートしてやってくれ」
 翌日、指定された場所へザップが赴くと、そこには十数人の人間が集まっていた。その中にはクラウスやチェインの姿もある。時間通りにきたな、と機嫌よさ気に言ったスティーブンに促されるまま、ザップはその場にいた「牙刈り」の面々に紹介されることとなった。
「で、ザップ。彼らが我々の仲間だ。
 「牙刈り」は大きな組織故に、メンバーであるオレ達もその全貌を窺い知ることはできない。諜報に特化した部隊や戦闘に特化した部隊、分析や解析特化の部隊……と、種類も様々だ」
「ちなみにうちは戦闘に特化してるけど、基本的には何でもやる万能型よ」
 スティーブンの説明に割り込むようにして口を挟んだのは、金色の髪をした長身の女だった。左目に眼帯をした彼女は、にこやかな笑みを浮かべている。
「そしてアタシはK・K。血弾格闘技を使って銃で戦うのが基本スタイルよ」
 腰から抜かれたハンドガンは重火器については素人のザップから見てもよく整備され、使用されているのがわかる代物だ。それだけで女の実力がある程度わかる。
「「ライブラ」
 それがうちの部隊の通称だ。クラウスをリーダーに据え、各地を飛び回っている」
 妥当だな、とザップは思う。
 戦闘に特化しているというのならば、純粋な戦闘力が高い者を頂点にすべきだ。スティーブンという男もやり手ではあるようだが、クラウスには及ばない。
 一番強い男、その事実にザップは背中がゾクゾクした。
 戦うべき時は今ではない。だが、約束を交わしている。いつでも向かっていいのだと。与えられた許可の甘美さを改めて噛み締める。
「改めて、クラウス・V・ラインヘルツだ。
 至らないところもあると思うが、その時はいつでも言ってくれ」
 差し出される手。
 ザップはわずかな戸惑いと気恥ずかしさを覚えながらも、おずおずとクラウスの手を握った。
「……よろしく」
「なら、オレも改めて自己紹介をしておこう。
 スティーブン・A・スターフェイズだ。一応、副官的なことをさせてもらっている。
 任務については大体オレの口から伝えさせてもらうから、そのつもりでいてくれ」
「ギルベルト・F・アルトシュタイン、と申します。
 クラウス様の執事をさせていただいております。戦闘はあまり得意ではありませぬ故、皆様のサポート役として置いていただいております」
「パトリックだ。戦うことに関しちゃ役にたてねぇが、武器の製造や仕入れなら任せとけ。何でも揃えてやる」
「……チェイン・皇。あんたと仲良くする気はないから。むしろ近づかないで」
 その場にいた面々が次々に自己紹介なのか喧嘩を売っているのか、はたまた何かの宣伝なのか、といったことを名前と共に告げていく。間の空かない言葉の数々にザップは視線をあちらこちらに向けていくことしかできない。
 数十人の人間が揃ってはいるが、これでもライブラの総員には足りていないというのだから驚きだ。
 集まっていない面子は、現在遠方での仕事を行っていたりだとかいう理由で欠席しているらしい。
「はいはい。そこまでー。
 ザップの自己紹介も聞いてやってくれ」
 頃合を見てスティーブンが手を叩くと、ざわついていた室内が静まっていき、全ての視線がザップに集められた。
 威圧感や敵意があるわけではない視線をこれほど大量に受けるのは初めてだった。思わず気圧されそうになるが、ザップの矜持がそれを許さない。
「ザップ・レンフロ、だ。斗流血法を使う。
 いつでもクラウスに勝負を挑んでいい、って理由で入った」
 途端、周囲がざわついた。
 あのクラウスに勝負を挑む、という驚きの声と、勇気のある面白い奴だ、という楽しさの見える声がザップの周囲に溢れかえる。
 自己紹介、等というものはザップにとって初めての経験だったが、周りの反応を見る限り、大失敗ということはなさそうだった。
 しかし、スティーブンだけは少しばかり苦笑いを浮かべている。
「お前に関しては色々と仕方ないのかもしれないがな、クラウスは一応お前の上司にあたるわけだ。呼び捨てはないんじゃないのか?
 せめて「さん」をつけなさい」
 意外とゴツいスティーブンの人差し指がザップの額をはじく。
 痛みは然程ないし、攻撃というほどのものでもなかったが、気持ちの上だけでいうとザップに大きな衝撃を与えていた。大抵は性交渉、時々ハグと握手、といった接触以外で、人と触れ合うことなどなかった。じゃれ付くような、からかうようなやり取りなど遠目から視界の隅に入れていたくらいの行為でしかない。
「……スターフェイズ、さん」
「よろしい」
 浮かべられた笑みは、昨日のような胡散臭いものではなく、チェインに見せていたような穏やかで裏表のないものだ。仲間として認められているらしい、とザップが自覚するには十分すぎる笑みだった。
「なら、これはご褒美と所属祝いだ」
 懐から取り出されたのは小さなカードと機械。
 後者には見覚えがあるが、前者には見覚えがない。
 ひとまずスティーブンからそれらを受け取ったザップは、機械、携帯電話を開いてみることにした。
「お前の名義で購入したものだ。基本使用料はライブラから出してやるが、それ以上は給料から引いていくからそのつもりでいろよ?
 使い方は自由にしていいが、任務や集会に関することはその携帯に連絡を入れる。壊すなよ?」
 念を押すように言われる。
 開閉式の携帯電話の待ち受けはデフォルトのまま放置されており、現在の日時が表示されているばかりだ。本体にも傷は見当たらない。正真正銘の新品。
 女が自分を繋ぐために送ってきた品とはわけが違う。重みも違う。ザップは自分の手の中にある小さなモノ達が急激に重みを増していくのをただただ感じていた。
「そっちのは免許証。
 偽造だけど、まあそんじょそこいらの警官にバレるような作りじゃない。
 何かあったらそれを見せるんだぞ。ちゃんと持ち歩けよ?」
 見たことがない、と思っていたカードは免許証らしい。
 いつの間に撮ったのか、ザップの顔写真と、昨日口にした生年月日が書かれている。生まれた年に関しては、現在から逆算して算出したのだろう。
 渡された二つを見て、周囲の人間はザップが今までどのような環境で生活していたのかをそれとなく悟ったが、一様に見なかったこと、気づかなかったことにして馬鹿話を続けていく。
 ザップは仲間になったのだ。彼の過去に何があろうとも、追求する必要はない。ライブラの一員ザップ・レンフロ。という事実だけがそこにあればいいのだ。
「…………」
 手の中にある重いそれらを見つめながら、ザップは何か言おうと口を開いては閉じを繰り返す。
 こういう時、言うべき言葉があったはずだ。しかし、それが何だったのか思い浮かばない。同情と哀れみと優越感と一抹の愛情を混ぜて送ってくる女からのプレゼントに対する気持ちと、仲間意識や善意からくるプレゼントに対する気持ちは全く別だ。ならば告げる言葉だって違って然るべきなのに、ザップには言葉がわからない。
「ザップ」
 スティーブンが静かに呼びかける。
 ハッ、とザップが顔を上げれば、スティーブンは声には出さず、口の形だけで言葉を一つ教えてくれた。
「あ、りが、とう」
「どういたしまして」
 ぎこちない言葉ではあったが、気持ちは伝わる。
 見てみないフリをしていた周囲も、その光景に思わず自身の心に花を咲かせてしまったのも致し方ないことだったのだ。
 この様に、ライブラの面々はザップを歓迎した。職業柄、というべきか、彼ら常に人手不足だ。仲間が死ぬことも、残念ながら珍しい話ではない。だからこそ、力のある人間はいつでも受け入れる準備ができているし、境遇に印象が左右されることもない。
 ザップの自己紹介が済んだ後は、歓迎会と称したどんちゃん騒ぎが行われた。誰もがただ酒だ、ただ飯だと歌い踊り、近況の報告をしつつ新人へ絡んでいく。
「ねぇ、見てよザップー。
 これ、うちの子。可愛いでしょお」
 顔をほの赤くしたK・Kはザップの肩をとり、一枚の写真を見せる。そこに映っているのは二人の子供だった。片方はまだ本当に幼く、普通の母親の顔をしているK・Kに抱かれ幸福そうに眠っていた。
 どこにでもある、一般的な母親というものをザップは初めて間近で見る。今まで付き合ってきた女達は当然独り身であったし、街中で見かける親子は遠目から眺めているだけだった。
「可愛い、な」
 小さい子供を可愛い、と思う感性はあった。
 守ってやらなくてはならない存在。
 幼い者は守られ、愛されるものだ。ザップ自身はそうでなかったし、そうしてもらえなかったことを不幸だとは思っていないが、写真の中にいる二人の幼子はこれから想像もできないような生活をし、幸せになっていくのだ、と思えば可愛らしさもひとしおだ。
「でっしょー!」
 ザップの肯定にテンションをあげたK・Kは彼の首を絞めるように腕を回し、際限なく力をこめる。酔っ払いに力の制御を期待する方が間違いだ。
「ぐ、ぐるし……」
「おいK・K、新人を独り占めするのはずるいぞ」
 酸素を求めて潰れた声を上げていたザップを救ってくれたのは、クラウスほどもある大男だった。
「えー、もっとザップと遊びたーい」
「次はオレ達の番だ」
 軽く微笑んだ男、パトリックはK・Kから引き離したばかりのザップに目を向ける。生理的に浮かんだ涙を拭いながら必死に新鮮な酸素を取り込む。
 戦闘力が高いことは予想できていたが、それにしても女としては規格外の腕力だった。
「――命が惜しくば酔っ払ったK・Kに近づくなよ。
 子供の話なんてしょうものならあの通りだ」
 K・Kが立ち去った頃合をみて、パトリックは真剣な口調で言う。
 無論、ザップがそれに反論するはずもない。無言で首を縦に振るばかりだ。
「さて、オレのことは覚えてるか?
 武器の整備や仕入れをしてるパトリックだ」
 身体は大きいが、強い男ではない。ザップは瞬時に判断する。
 K・Kから助け出された際に触れた身体には、筋肉はあるものの戦うためのものではなかった。加えて、武器の整備や調達を担当しているということは、自ら前線に出るタイプではない、ということ。
 これで戦う力があれば面白かったのに、と思っていたことが顔に出ていたのだろう。パトリックは豪快に笑った。
「まあ、お前の相手は務まらんだろうな。
 だがな、オレみたいな奴でって必要なんだぞ。
 見てみろ、あいつの武器もあいつの武器も、あいつが持ってる戦車だってオレが調達したものだ」
「戦車ぁ?!」
 実物は見たことがないが、簡単に入手できるものでないことはわかる。
「正真正銘本物の、な」
 パトリックは歯を見せてクールに笑う。
「既存の品は当然だが、オーダーメイドの一品物も扱ってるぞ。
 リーダーのメリケンサックも、スティーブンさんの靴も、K・Kの銃も、あいつらの能力に合わせたオーダーメイド武器だ」
 そこから朗々と武器の構造について説明されるが、元々頭が良い方ではないザップだ。言われていることの半分も理解できない。かろうじてわかったのは、クラウス達の持つ武器がオーダーメイド品であることと、そこに付与されているちょっとした仕掛けについてだ。
 高い威力を誇るクラウスの技は、その力が強すぎるあまり、形状を保つことが難しいらしい。形を留めることができなければ、力はあちらこちらに分散されてしまう。それを防ぐために、彼の武器は十字の形をしており、その形のまま外へ血を押し出すことを可能としているらしい。
 また、スティーブンの武器は靴であるらしく、靴底にはめ込まれている金属と彼の身体に刻まれている刺青が反応しあうことで技を繰り出すことを可能としているそうだ。
 K・Kの武器は一見するとただの銃だが、そこにも細工はあるらしく、何でも銃身に血を溜めることで、弾丸を発射する際に血を付着させることができるのだという。
 わからないなりに理解できた部分だけでも、パトリックという男が優秀な武器屋であることが見えてくる。だが、ザップは静かに首を横に振った。
「でも、オレには必要ねぇな」
 軽く親指の先を噛めば、そこから赤い血が滲み出る。体外へ出た血は瞬く間に形を変え、ザップ愛用の刀、焔丸の形を取る。
「オレの武器はこの血一つだ。
 他には何もいらねぇよ」
 形を留めるための細工も、発動のための仕込みも、別の何かに血を付着させる必要もない。
 自信たっぷりに笑って見せた彼に、パトリックは少しばかり不服そうな顔をしていた。
 その後の生活として、ザップは女遊びを止めることはなかった。あくまでも表面上は今まで通り、女の間を渡り歩くクズヒモニートだ。しかし、ライブラ用の携帯電話に着信があれば、文句を言うこともあったが必ず基地や現場にやってきた。任務に関しても適当なことをせず、やるべきことを言われるがままにこなしていった。
 日々の合間にクラウスへの攻撃も行われていたが、傍から見れば親猫と子猫のやり取りでしかない。
 一ヶ月もすれば、ザップは呼び出されていないときにもライブラに顔を出すようになった。時には仲間と馬鹿な話をし、時にはK・Kに絡まれて愛すべき家族の話を延々と聞かされ続けた。
 だが、ザップが生きてきた推定二十年間の経験が一ヶ月ごときで塗り替えられるはずもない。
「スティーブンさん、やっぱりあいつと任務すんのはキツイですよ」
 ザップがライブラに入ってから、スティーブンは幾度となく似た系統の話を持ちかけられた。
「あいつの実力は認めてます。性格だって根は悪い奴じゃない。
 でも、あいつには強調性ってもんがないんですよ」
 モノを知らぬが故に、ザップと他の者の間には埋められないズレがある。日常の中で見え隠れするズレ、主に道徳面、は少しずつではあるが改善されているように思えるが、戦闘に関してはズレが顕著であり、修正の見込みが中々見えてこない。
 ライブラの任務は、大抵が二人一組、ないしはもっと大勢のチームで動くことが大原則となっている。情報収集程度ならば単独で行動することもあるが、戦闘ともなれば一人で行かせるにはリスクが高すぎる。
 ある者はザップと戦闘任務についた後、スティーブンにこう話した。
「守るってことがわかってないんですよ。
 オレが目の前の敵に手一杯なのはわかってて、背後から狙われてるのも見てたはずなのに放置ですよ」
 彼は背後からの攻撃を受け、およそ一週間の間、病院で寝泊りすることとなっていた。
 またある者は、隠密行動中だったにも拘らずザップが派手に暴れた、という報告をした。任務そのものは報告者の手によって成功したのだが、ザップの行動は命令違反以外の何モノでもない。
 別の者など、ザップの攻撃に巻き込まれかけた、というのだから頭の痛い話だ。一応、ザップは避けろ、と叫んではいたらしいのだが、いかんせん着火のタイミングが早すぎたらしい。同行していた者は軽い火傷を負うこととなってしまった。
 実力はある。普段の生活態度はクズであるが、根は悪くないことが伝わってくる。
 しかし、それと協調性というのは別の話だ。
「……わかった」
 スティーブンは重々しく頷く。
 数日後、彼はザップに任務を言い渡す。
「――と、いう内容だ。
 今回はK・Kと組んでもらう」
 とある組織の研究施設にある薬品を奪取する、というのが任務内容の要約だ。その薬というのが、どうやら異界と関係しているらしい。
「施設はぶっ壊していいんッスか?」
「構わない。だが、薬は持ち帰れ」
 スッパリと言い切ったスティーブンに、ザップは口角を上げて喜ぶ。
 派手に暴れられるというのは、それだけでこの上ない楽しみとなるのだ。
「オレとクラウスが敵を引きつけてるから、あまり暴れられないかもしれないがな」
 作戦の内容は簡単。
 組織連中の殆どが異界に住まう者との交渉のため、外に出る日がある。その時を狙い、クラウスとスティーブンが施設の外にいる奴らを叩く。その間、手薄となっている施設をザップとK・Kが狙う。
 ザップが派手に動けば、動揺した面々を楽に叩き潰せるだろう。そうなれば薬の奪取も容易い。
 施設に潜入、薬の奪取を謀るのは機動性の高いザップの仕事。K・Kは外から施設内に入ろうとする援護部隊の射撃、一掃を担当する。
 この方法ならば、特別チームワークが必要なわけではないし、何よりもK・Kならば多少のことは自分でどうにかできる。協力させることが難しいのならば、ザップにこちらが合わせる方が手っ取り早い。一応は長い付き合いになる予定なのだから、じっくり対策を練っていくのも悪くはないだろう。
「ちゃんとインカムつけた?
 電源は入ってる?」
 敵陣前。K・Kはザップを前に彼の頭からつま先までをじっくりと見る。
 互いに連絡をつけられるように、と与えられたインカムをザップはしっかりと耳につけていた。心配されずとも電源は入れっぱなしだ。
「んなに言われなくたって大丈夫だっつーの。
 K・Kさんはちょっとオレのことを疑いすぎじゃね?」
 ザップは軽く唇を尖らせる。
 心の底からの信用など、クラウスを除けば目にしたこともないが、それにしたって疑われるのは気持ちのいいものではない。少なくとも、書類上では成人していることになっているのだ。あれこれと口出しされる歳ではない。
「心配してるのよ。アンタ、ちょっと抜けてるとこあるし」
「オレがぁ?」
 実生活が爛れていることは自覚しているが、抜けているとは心外だ。確かに、女関係では下手を打って酷い目にあったことも少なくはないものの、抑えるところは抑えているつもりだった。円満解決、とまではいかずとも、最悪の事態に陥ったことはないと記憶している。
 それに、心配、等という言葉は使ってほしくなかった。
 聞きなれない言葉は、どう返していいのかわからなくなる。
「大丈夫だって。んな難しい任務でもねーし。
 ちゃちゃっと暴れて、奪うもん奪ってくっからさ」
 言うや否や、K・Kの言葉を完全シャットダウンした状態で駆け出す。
 向かう先は施設の内部。
「全く……! 道は開けてあげる!」
 ザップの姿を認識した警備の連中が群がってくる。それをK・Kは的確に、かつ素早く打ち抜いていく。出入り口までの一直線、まるで目に見えぬ壁でもあるかのように道ができあがった。そこをザップは通行手形でも持っているかのように悠々と駆け抜ける。
 内部に侵入を果たしたザップとK・Kはインカムを通して言葉を交わす。
「道はわかる?」
「バッチリ。あの犬女が調べた通りだぜ」
 施設の構造は事前に人狼局の面々が調べていた。その時に薬を奪取することも可能だったのだが、いくら存在を希釈できる存在達とはいえ、敵陣の真っ只中、警戒も万全にされている状態での行動は危うい。薬の破壊ならばともかく、持ち帰ることが必要ならばなおさら。さらに付け加えるのであれば、どうせならばついでに組織ごと潰してしまおう、というスティーブンの思惑も今回の作戦の実に八割を占めていると言っていい。
「……何か、変な感じだ」
 ザップが呟いた。
「何が?」
 K・Kは生きた存在が見えなくなった出入り口前を遠くから見張りつつ、問いかけを返す。
「いや、上手く言葉にできねーんだけど」
 もごついた声がやけに気にかかる。
 言われてみれば、K・Kも不完全な違和感を覚えた。
 見張りの数が少ないのは当初の予定通り。インカム越しに聞こえるザップの戦闘音から推測できる内部の人間の少なさも同じく予定通り。何の不安もないはずだった。
「――ハメられた」
 数分の無言の後、ザップが言った。
「え?」
 間抜けな声だ。K・Kは自らの声に思わず舌打ちをしたくなる。意味のない疑問符を浮かべていられるような状況ではないことくらい、ザップの声の重みから察することができていた。
「あんたは向こうと合流しとけ!」
 クラウス達の名前を出さなかったのは、敵に味方の名前を知られることを恐れたからだろう。的確な判断だ。しかし、そんなことよりも、K・Kはザップから出された指示に驚愕した。
 向こうと合流しろ、ということは、即ち、ザップを置いて逃げろ、ということだ。
 とんでもない言葉だ。仲間を見殺しにしろ、という言葉を吐かれたのは何もこれが始めてではない。しかし、それはいつだって次の打開策があったからだ。確実に助け出せる目処があるから、今は、今だけは痛む胸を押さえて退け、という意味合いの言葉だった。
 ザップの言葉は違う。無意味に、策もなく、ただ逃げろ、と言う。
「何を――」
 馬鹿なことを、と続けるつもりだった言葉は消える。
 K・Kの耳にかかっていたインカムが酷い音を立てたのだ。思わず身体をそらしてしまうが、耳元の音は消えない。高音に混じったノイズは、繋がっていた先で、インカムが壊れたことを示している。
「ザップ! ザップ、返事を!
 あぁ、もう!」
 無意味な音ばかり出すインカムを地面に叩きつける。情報伝達の機能を失ったそれにもはや価値はない。
 こうなれば突入だ。そう決心し、K・Kが立ち上がると、上着のポケットに突っ込んでおいた携帯電話が着信を示して震えた。この忙しいときに、と思わないでもなかったが、反射的に画面を確認すると、そこには「冷血男」との文字が表示されている。
 ライブラのことを隠すため半分、相手が嫌い、という理由半分でつけた名前は、紛うことなくスティーブンを意味していた。K・Kは勢い余って電源を落としてしまわなかった自分を褒める。
「どうなってんのよ! ザップが!」
「すまん! ハメられたらしい。今、クラウスとそっちへ向かってる」
 どたばたとした音が携帯電話越しに伝わってくる。向こうも取り込み中らしいが、K・Kからしてみればそんなことはどうでもいい。敵と交戦中とはいっても、あちらはライブラ屈指のパワーを持つクラウスと、腹黒さと頭脳ならばそう負けはないスティーブンのコンビだ。何をしたって無事であることなど目に見えている。
 さらに、ハメられた、ということは、クラウス達が相手にしているのは囮。本命は施設の内部で襲撃を迎え撃つ構えだった、ということだ。
「早く! ザップとの通信が切れたわ。
 中の様子が全くわからない」
「そりゃマズイ。オレ達が着くまでキミはそこで待機しててくれ」
 K・Kの手の中で携帯電話が嫌な音を立てる。
「待機? 待機ですって?」
 いつもよりも数段低い声が口から出た。
 それもそうだろう。ザップとの最後の通信で、K・Kは胸が苦しくなるような通告を受けているのだ。それと殆ど同じ意味合いの言葉を聞かされ、冷静でいれるはずもない。例え、スティーブンが策を持っていようとも、今からライブラ最強の男がこの場へやってこようとも、もはやK・Kを止める理由にはならない。
「ふざけないで! こんなところでじっとしていられるわけないでしょ!」
 スティーブンの言葉など聴きたくもない、とばかりにK・Kは通話を終了させ、自前の武器を手に駆ける。出入り口には警備の連中が続々と集まってきているが、そんなものには欠片の興味すらわかない。
「どきなさい!」
 K・Kのハンドガンが火を噴く。
 スナイパーとしての役割が大きい彼女ではあるが、血弾格闘術は近接戦を想定した格闘術も技の一つとして組み込まれている。雑魚を受け流しつつ施設の内部に入りこむくらいの働きは可能だ。
 ただ、無念なことに、ザップやクラウスほど、そういった仕事が得意なわけではない。あらかたザップが敵を倒して行った道のりとはいえ、隠れていた者達も出てきている現状、K・Kは迅速に最深部への侵入を果たすことができずにいた。
 敵を倒し、気絶させ、踏み越え、奥へ進む。
 時間にしてどれだけのものだったか。数度、携帯電話が震えたのを感じたが、通話する暇もなく走りぬけたので、十数分から二十分程度の間だろう。
 一時間も経っていない。しかし、人が一人死ぬには、十数分は充分すぎる時間だ。
「ザップ!」
 悲鳴のような声で彼の名を呼ぶ。
 早く見つけてやりたい。返事を聞きたい。何なら抱きしめてやりたい。その一心だった。
「アンタら、今のアタシの邪魔すると、ただじゃすまないわよ?」
 眼前の敵を睨む一つ目は鋭利な刃物よりもずっと鋭く輝いていた。目的を成すために、その眼光は敵を食う。
 K・Kはずっとザップのことを気にかけていたのだ。新しい仲間だから、という理由だけではない。彼が親の愛情を知らないのだろう、と思ったからだ。同情だ。そして、愛する息子を二人持つ母の慈愛だ。
 数多くの女がザップを哀れに思い、情を寄せたように、K・Kも彼に愛を寄せた。
 息子の話をしたときに、きょとん、とした表情をしていたことが気になった。夫と息子に向ける愛について口にしたとき、悲しい笑みを口元に浮かべていたことが忘れられなかった。
 愛してやりたい、そう思ったのだ。
 あの哀れな子供を愛してやりたい。
 ザップの女癖が酷いことは知っていた、クズっぷりもチェインから聞かされていた。本人に会って、話し、なるほど、と納得した。これは商売女が愛を与えるに適した相手だ、と。
 純粋な愛を知らぬ男は本気の恋に落ちることがない。ストーカーだとかいう面倒事が起こることはない。何も知らぬ男は無制限に愛を注がせてくれる。愛を与えた、という満足感を与えさせてくれる。それは、女の寂しい心を埋めるのだ。
 故に愛され、故に哀れ。
 彼に、愛されることの意味を教えてやりたい。
「返事をしなさい! ザップ!」
 勢いに任せ扉を開ける。
「……は、い?」
 そこに、彼はいた。
 敵の血か己の血か、何にせよ体中を真っ赤に染め、美しい銀糸の髪でさえ鈍い赤になってしまっているザップが、間抜けな面をK・Kに向けている。
「あれ、何でここに?」
 何度も瞬きを繰り返し、K・Kがいる現実が夢幻ではないのかを確かめる。ザップの手の中には目的の物であろう手のひらサイズの箱があった。
 周囲には倒れている人の影しか見えず、既に事は済んでいるらしいことがわかる。
「何で、じゃないわよ!
 この馬鹿! 心配したわよ! 馬鹿!」
 現状を確認したK・Kはすぐさまザップの赤い身体を抱きしめた。
 錆びた鉄のような臭いも、じんわり服に染みこんでくる液体も無視だ。今はザップが生きている、その体温を感じ、強く抱きしめることだけが大切な事柄だ。
「は? え?
 ちょっ、本当、どうしたんだよ」
 顔ごと抱きしめているため、ザップの顔は見えない。
 しかし、その声には困惑の色が濃く、目を白黒させているのだろう、ということは想像する余地すらない。
「オレってそんなに信用ねぇ?
 結構、強いつもりなんだけど」
 もがくことをやめたザップは静かに問いかけた。
 K・Kにはクラウス達の方へ行け、と言ったのだ。なのに、彼女はこの場にいる。道中が安寧としたものではなかっただろうに、最深部まできてしまった。
 任務一つこなせないと思われたのか、ザップは不服をもらす。
「本当に馬鹿! 大馬鹿者!」
 抱きしめていた手を離したかと思えば、ザップの頭に垂直チョップをかます。手加減なしのそれは鈍痛を伴って彼の脳を揺らした。この場所へきて一番の攻撃だったかもしれない。
「アタシはアンタを心配したの!
 任務のこととかどーでもいいの!」
 生きていればやりようはいくらでもある。
 手を伸ばせば届く位置にいる仲間を前に、その場から撤退しなければならないような苦痛を味わいたくはない。
 そんな簡単なことがザップにはわからないのか。
「心配……」
「そうよ。アンタ、わかってないみたいだから言うけどね、アタシが心配してるのは任務のことじゃないからね。
 アンタの力は認めてるし、知ってるわよ。任務だって余程のことがなければ失敗することなんてないと思ってる。でもね、任務に成功したとき、アンタの身体はどうなの。
 怪我してるんじゃないかとか、変な薬使われてないかとか、痛い思いしてないかとか、そういうことがアタシは心配なの」
 現に、今のザップは血まみれだ。
 殆どが返り血だとしても、彼自身の血がそこにないとは思えない。よく見れば衣服はあちらこちらが切れているし、肌に傷も見える。
「そういうのを少しでも減らすために仲間がいるのよ。
 今回だって、ちょっとアタシを待ってくれればここまで酷いことにならなかったでしょうに」
 ポケットからハンカチを取り出し、ザップの顔を少し拭ってやる。
 白い布が真っ赤に染まってしまったが、それでも彼の顔全ての血をふき取ってやることはできなかった。
「……でも、K・Kさんが怪我したら困るだろ」
「アタシが怪我してもアンタが怪我しても同じでしょ」
「いや、違くて……。
 怪我してんの、旦那さんとか息子とかに見られたら、困るんじゃねーの?」
 目を丸くしたのはK・Kだ。
 この子は何を言うのだろう、そんな気持ちが胸に溢れる。
「昔、キャシーが親父さんが怪我した、って泣いてた。
 K・Kさんのとこもそうなるんじゃねーの?」
 馬鹿だ、とK・Kは思う。
 今日何度目の罵倒なのかわからないが、それでも思わずにはいられない。
「……アンタが怪我したら、アタシが悲しむ」
「え?」
「アンタが死んだら、アタシは泣くわよ。
 クラっちだって悲しむ。あの冷血漢だって悲痛な顔をするでしょうね。チェインだって悲しむし、ギルベルトさんも悔やむ」
 真っ直ぐな目がザップを映している。
 出まかせでも何でもない、本心が綺麗な瞳にそのまま現れていた。
「だから、アンタが怪我しても困る」
 困る。その言葉にザップの方が困ってしまう。
 K・Kのことは気に入っている。何だかんだといいつつも、ライブラの面子全員がザップは気に入っていた。今までいなかった友人、というやつのなのかもしれない。そんな風に思えるくらい、彼らには心を許している自覚があった。
 けれども、所詮は他人だ。
 見聞きしたことのある家族、というやつではない。それは、とても近い存在なのだと聞いている。
 そんなものにザップはなれない。
「何で、他人の怪我で悲しむんだよ」
 例えば、ザップに家を提供してくれている女が怪我をしたとしよう。
 ザップは女の怪我の具合くらいは気にするだろう。必要があれば包帯を変える手伝いくらいはしてやってもいい。しかし、その傷を見て悲しむか、と言われれば、答えは即答一言。否、だ。
「他人なんかじゃないからよ」
 見知らぬ人間ではない。他の人、と言えるような薄い間柄でもない。
「アタシ達は仲間」
 ザップの手を優しく握りこむ。
「家族みたいなもんでしょうよ」
 声にならぬ声で、ザップは家族、と呟く。
 まるで初めて口にする単語のように、慎重に、ゆっくりと。
「アタシはもう可愛い息子達の母親だから、アンタのお母さんにはなれないけど、家族って他にも色々あるでしょ?
 お姉ちゃんって呼んでくれてもいいのよ?」
 そう言って笑うK・Kは、いつもの優しい彼女だった。
 ニコニコしていて、感情の起伏がある。見ていて飽きない女性。
「……いや、K・Kさんはお姉ちゃんってか、姐さん、って感じだ」
 ザップはジリアンという女のことを思い出していた。彼女はいつも、血は繋がっていないがいつも頼りにしているグレンダ、という姐さんがいるのだ、と言っていた。
 あの時は、血のつながらぬ姐、という言葉が理解できなかったが、今ならばわかる。
 つまり、こういうことなのだ。
 血の繋がりとは違う、しかし強い繋がり。
「良いわね。うん。姐さん。
 これから、アタシのことは姐さん、って呼んでしょうだい」
 K・Kはザップの手を引く。
「ちょっと長居しちゃったけど、早くここからでましょ。
 今、クラウス達がこっちへ向かってるらしいから」
「ウッス」
 帰りの道は行き程面倒ではなかった。
 多くは既に倒した後である、というのが一つ。もう一つは、地形を完璧に把握できているため、有利に戦うことが可能となっている、という理由からだ。
「ね、姐さん」
 少し戸惑いを含みつつも、ザップはK・Kを言われた通りの名称で呼ぶ。
「なぁに?」
「オレ、他の奴らと任務で一緒になったとき、あいつらが怪我すると、こう……胸? の辺りが、もやもやするんだ。
 あれって何かわかるか?」
 K・Kは目を細める。
 本当に、ザップはまだ成長している途中なのだ、と。もっと幼い頃に知るはずだったことを、今になってようやく学ぶことができている。理屈では計れない部分を成長してから学ぶのは困難だ。しかし、知ってもらわなければならない。そうでなければ、ザップは不完全なままだ。
「それが、悲しいってことよ」
 哀れみと、かすかな歓喜をこめて言う。
 悲しみを知らぬザップは、それでもライブラの面々を仲間と認め、彼らが傷つくことに胸を痛めてくれていた。それが知れただけでも、今回の任務は大成功だった、とK・Kは胸を張れる。
「これが?」
 ザップは胸を押さえてみる。
 今は痛くない。むしろ、暖かささえ感じている。
「そう。アタシはそれが嫌いなの。
 だから、アンタを守りたいし助けたい」
 少しでもいい。この気持ちが伝われ、と念じた。
 完璧な理解には遠くとも、その破片だけでも知って欲しい。それは大きな一歩になるから。
「守る」
 汁外衛はザップを鍛えてくれたが、守ってはくれなかった。彼が与えてくれるのは庇護ではなく救助だ。
 守るとはどういうことだ。傷を作らせないことか。痛みを与えないことか。
 ザップの頭の中で、守る、という言葉がぐるぐると回る。
 ずっとそうしたいと思っていた、そんな言葉が頭をよぎった。しかし、その方法がわからない。敵対している者の実力や隙はわかるのに、味方のことは少しもわからない。
 どの程度ならば避けれるのか、どうすれば敵をあちらにやらなくてすむのか、どのタイミングで攻撃をすれば巻き込まずに済むのか。
 一つだってわかりはしない。
 そのことを正直に伝えてみる。すると、K・Kは思い当たる節があるのか一瞬の沈黙を見せ、ザップに答えを与えてくれる。
「ひとまず、どんな攻撃からも守ってみたら?
 傷一つつけさせない! ってくらいの意気込みで!」
 K・Kは他者を守る、ということを意識したことはなかった。
 衝動のように仲間を守り、人々を救っていた。それが全人類共通の感覚だとは思っていないが、改めて説明させられるとどうにも言葉が出ない。
 精神論だけでザップが理解してくれるのか不安だったが、今のところは納得してくれたらしく、何か考え込むように沈黙していた。
「ほら、出口見えたよ」
 静けさをかき消すように、K・Kが指さし、二人は施設からの脱出を成す。
 広がる世界の向こう側に、見覚えのある車が目に入った。あれはギルベルトが運転する車だ。クラウスとスティーブンが乗車しているのだろう。
「おっそいのよ。全く」
 怒りの言葉を吐きながらも、彼女の口元は笑んでいる。つられるようにしてザップも微かに笑った。誰かが迎えにきてくれる、というのは悪くない。
 不意に、ザップは寒気がした。
 何か、良くないモノが背後にある。
 振り返るよりも早く、ザップはK・Kを自身の血で覆う。小さなシェルターが完成すると同時に、彼は自身の身に迫っている危機を目にした。
 それは異形の化け物だった。
 身体は大きく、ザップの三倍は優にある。異常に発達した筋肉は、人一人ならば雑巾のように絞ることもでそうに見えた。硬化しているらしい肌は、日の光を反射して薄く光っている。
 一点突破で突き刺せばどうにかなるかもしれない。
 そんな気持ちでザップは手のひらに槍を出現させうよとする。
「――あ」
 ぐらり、世界が歪む。
 血が足りていない。
 今まで戦ってきた際に消費した血液、傷によって流れ出た血、今さきほどK・Kを包み込んだ血法。ザップの身体を巡るそれらは、限界まで削られていた。
 これは死ぬかもしれない。
 膝をつきかける体を感じつつ、ザップは眼前の化け物を見る。
 最期になろうともあがく。こんなところで簡単に死んでたまるか。
 強い意志がザップの身体を動かした。
「斗流血法――」
 貧血で気持ちが悪くなる。視界が揺らいでいる。だが、ザップの目の光は消えない。
 彼の血が一筋の槍を形作り、異形を討つためにその手から放たれようとする、その時だった。
「ブレングリード流血闘術、零弐式散弾式連突!」
 男の声。そして、降り注ぐ無数の十字架が異形を細かく砕き、その姿を消滅させる。
 残されたのは血の臭いと赤い地面。そして、行き場のなくした槍を握っているザップと、拳を握り、地面に着地したクラウスだけだ。
「無事か、ザップ、K・K」
 眼鏡の向こう側、クラウスの目が光る。
「お、おう……」
 守られた。
 そう実感する。
「ちょっとザップっち!」
 気が抜けたことでK・Kにまとわせていた血が解けたらしい。
 怒り心頭な様子の彼女がザップに歩み寄る。
「なんてことしてくれんのよ!」
「え、オレ、何かマズった?」
 ザップは眉を下げ、K・Kに弁解しようと必死になる。彼としては、K・Kの言葉を自分なりに考え、行動した結果なのだ。自分がものをよく知らない、という自覚はあるので、何か間違えたのだろう、とは思うのだが、そこからの発展は見込めない。はっきりと言葉にしてもらわなければわからない。
「クラっちがいたからよかったものの、アンタ、死ぬつもりだったの?!」
 彼女の目には涙が滲んでいた。
 悲しむと、泣くと言ってくれたのは本当だったのか、と、ザップは場にそぐわぬことを考えてしまう。
「アタシだけ守ってどーすんのよ!」
「まあまあ、K・K落ち着いて」
「これが落ち着いていられる? この冷血漢!」
 車から降りてきたらしいスティーブンも合わさり、場は大騒ぎだ。
 気持ち取り残されたザップはギルベルトに救いを求めて目を向ける程度のことしかできない。
「危険なことをしてはいけませんよ」
「それが仕事なんだけど……」
 返ってきた言葉に、思わず鎮痛な表情を浮かべてしまう。唯一、話が通じそうな人間だっただけに、落胆の気持ちは隠せない。
「何言ってんの。危険なことをするのが仕事じゃないわよ。
 任務をこなして無事に帰ってくる、それが仕事よ」
 K・Kの言葉を噛み砕き、飲み込もうとした直後、ザップの視界は真っ暗に染まった。
 遠くの方で、自分の名を呼ぶK・Kやクラウス、スティーブンにギルベルトの声を聞いたような気がしたが、その真偽はわからない。



 目が覚めたとき、そこはライブラの基地だった。
「……あれ?」
 首を傾げていると、K・Kの顔がザップの目に飛び込んでくる。
「目が覚めた! ねぇ! ザップっち、目を覚ましたわよー」
 彼女の声を聞きつけ、ライブラの面々がザップの前にぞろぞろと集まってくる。本日の面子は、クラウス、ギルベルト、スティーブン、チェイン、パトリック、そしてK・Kだ。
「まったく、二日も目を覚まさないから心配したぞ」
「戦うことしか能がないんだから、しっかりしなさい」
「いやはや、倒れられたときは驚きました」
「身体はどうだ。痛むところはあるか?」
 矢継ぎ早に聞かれ、ザップはあちらへこちらへと視線を向けるばかりで、返す言葉が出てこない。そもそも、現状すら理解できていない状況だ。誰でもいいから説明をして欲しい。
「貧血で倒れたのよ。
 しかも、奴らの武器に毒が仕込まれてたみたいで、二日も眠ったままだったんだから」
 一番近くにいたK・Kが心配そうにザップの手をとり、話してくれる。
 倒れたときのこと、その後のこと。順序だてて聞いて初めて、ザップは自分の身に起きたことを把握することができた。
「なんか、悪い」
 大事になってしまった。そう思って謝罪を口にする。
 すると、誰もが深いため息をついてしまった。呆れたようなため息に囲まれ、ザップは眉間にしわを寄せる。
 自慢するようなことではないが、自分が素直に謝罪するなど、そうないことだ。それを呆れるとはどういう了見なのだ、とばかりの表情だ。
「一応、ライブラのメンバーなんだから、簡単に死なないでよね」
 チェインが冷たく言う。
 だが、その言葉の裏側にほの温かいものが見えたのは、勘違いではないはずだ。
「まったくだ。危うく、せっかく作ったモンが無駄になるところだった」
 豪快に笑いながら言ったのはパトリックだ。
 作った、という言葉にザップが疑問を抱くと、パトリックは小さな箱を取り出してきた。ラッピングも何もされていない、簡素な箱だ。
 それはバドリックの手から、ザップの手へと移る。
「開けてみな」
 言葉に従うようにして箱を開ける。
 小さな箱の中にはクッションが埋め込まれていた。青いクッション。その中心に、それはあった。
 銀色のジッポ。ザップが持っているものとよく似ているが、全く違うものだ。箱の中にあるジッポにはスイッチのようなものと握りやすいくぼみ、そして小さな試験管のようなものが見える。
「これは?」
 素直に聞いてみると、パトリックは自信を持って言葉を吐く。
「お前の武器だ」
 初対面のとき、ザップが武器など必要ない、と言っていたことがずっと引っかかっていたのだという。ライブラの面々が持つ武器はパトリックが選別してきたものだ。
 戦いに参加できぬからこそ、自分が選んだ最高の武器で戦って欲しい。それがパトリックの願い。
 前線に出るのであろうザップにも、最高の武器を送りたい、と思ったのはおかしな話ではなかった。
「そのスイッチを押すと、小さな針が出る仕組みだ。
 お前の技はいつも痛そうだし、細菌が入るんじゃないかって冷や冷やする」
 試しに軽くスイッチを押してみると、試験管のようなものの中から細い針が出る。血を出すには充分そうな鋭利さだ。
「消毒液と血の凝固を防ぐ薬も出るから、お前にはピッタリだろうさ」
 小さな傷でも充分な血を引き出せるように、とパトリックは考えてくれたらしい。
 いつも噛み千切ったり、爪で深く刺しているザップの親指はボロボロだ。その傷がいつか完璧に治るように、そうして次は傷を残さずにすむように。
 適当にいじってみると、ジッポとしての役割もきちんと果たすらしく、赤々とした炎が出た。実用にも足る、良い武器だった。
「どうだ? お前に似合いの武器だろ?」
「まあ、そうだな」
 いらぬ、と言った手前、認めるのは癪だったが、良いものだった。ザップに合った、ザップだけの武器。世界に唯一つだ。彼以外にこの武器を必要とするような人間はいない。
「次は倒れてくれるなよ?
 心臓がいくつあっても足りやしない」
「あんたも心配、したのか?」
「当たり前だろ。オレだって仲間の心配くらいする」
 スティーブンは笑ってザップの頭を撫でる。
 鬱陶しいとばかりに手を振り払うが、それでもスティーブンは笑みを浮かべたままだ。どうにもしてやられた感が拭えない。かといって、暴言を吐こうものならば酷い目に合わされる未来しか見えないので、ザップは口を閉ざすことしかできなかった。
「本当によかった。
 私は、間に合わなかったのかと思った……」
 顔をしかめているのはクラウスだ。
 自分の不甲斐なさを責めているように見える。彼は間に合ったというのに。
「旦那、オレは無事だぜ?」
 ポロっと出た言葉に口を塞ぐ。
 何か、とんでもない言葉を吐いた気がした。
「旦那?」
 クラウスが首を傾げている。
 他の面々は笑うのを堪えているようだった。
「違っ! ま、間違いだ! 間違い!」
「あらぁ、いいじゃないの。
 アタシが姐さんなら、このチームのリーダーであるクラウスは大黒柱、お父さん、旦那だもんねぇ」
「姐さん!」
 何か意図があってクラウスを旦那、と呼んだわけではない。
 K・Kの言うような連想から出てきたのかもしれないし、どこかの女が言った言葉が頭に残っていただけかもしれない。どちらにせよ、ザップが意識したものではないのだから、ノーカウント扱いになるべきだ。
「ザップ。私はそう呼ばれて嬉しい」
「へっ?」
「それはキミが、私を、ライブラを、家族のように思ってくれている証拠だろ?」
 愚直な目だ。
 一つしか見えず、そこに突っ走るだけの、真っ直ぐで綺麗な瞳。
 それに見つめられて、否、と吐ける人間は、余程面の皮が厚いか、心のない人間くらいだ。
「勘弁してくれ、旦那」
 顔を真っ赤にしたザップを見て、チェインがとうとう堪えきれずに噴出す。
 腹を抱え、まさに抱腹絶倒の文字を欲しいがままにしている彼女へ、ザップは身を乗り出して怒りを吐く。体はまだ本調子ではないのだが、そんなことを言っている場合ではない。
 今すぐにチェインをしばかなければ、男の沽券に拘る。
「このクソ犬!」
「何よ。あたしのことも姉ちゃん、って呼んでいいのよ?」
「誰が呼ぶか!」
 楽しげな笑い声と怒声が基地に響く。
 それは、噛みあいきれてなかった歯車が、綺麗にはまり、動き出した音とよく似ていた。