苦痛と快楽の狭間で揺れていた体は、確実に快楽へと流れる。
 あの忌々しい声に誘われるがまま、マタタビは足を踏み出す。
 いつか全て忘れてしまえるのではないかと、馬鹿馬鹿しい思考に苦笑する。
 切り捨てられれば、悲しみなど起こらなかったはずだ。




【女王の足の下には虎猫が横たわる】




 いつもの電話で呼び出された。
 いつもの合い言葉で館に入り、地下へ降りる。
 暗い階段を一歩ずつ降りて行くと、まるで泥沼にはまっている自分自身のように感じた。今はどの辺りなのだろうか。そろそろ底につくのだろうか。
「やあ」
「…………」
 綺麗で、汚い笑みがマタタビを迎える。
「いい知らせだよ」
 マタタビの頬に触れながらミーが言葉を紡ぐ。
「これが最後だ」
 片目が見開かれる。
 口が開かれたが、紡ぐべき言葉は見当たらない。それどころか、胸に渦巻く感情すらわからない。
「だから楽しもうよ」
 踊り出しそうなリズムを取りながら離れる。手にするのは愛用の鞭だ。服の上から打たれると、痛みは少ないが帰るときに困ってしまう。マタタビは恥を捨て服を脱ぐ。
「最後」
 小さく呟く。未だに現実味を帯びない言葉だ。
 体に刻まれた傷が癒える日が来るとは思っていなかった。快楽もまたしかり。
 鞭が風を切る音がする。
「――――っ」
 焼けるような痛みが喜びに変わる。
「ねえ、楽しいよね。今まで楽しかったね」
 返事など求められていない。
 ミーはひたすらにマタタビの体を傷つける。
 今までされてきたことを一度にされていた。鞭も、蝋も、刃物も、縄も、暴力も。最後を愛おしく思っているかのように繰りかえされる。体に傷が刻まれるたび、マタタビに快楽が積もる。その快楽を放ってもなお痛みという名の快楽は押し寄せてくる。
「はっ……。も、む……り、だ」
「まだだよ。だってさ、最後なんだよ?」
 傷と放たれる快楽に体力を奪われ続けていたマタタビは息をきらせる。
「それに、ボクはまだまだいけるしね」
 無理矢理ではないが、限りなく無理矢理に近いこの行為には慣れている。しかし、人には体力の限界というものがある。
 痛みが快楽に繋がるなど、知りたくなかった。相手が敵のボスであって欲しくなかった。
「さい、ご」
 再び呟く。
 これで全てが終わると思えば、今の現状にも何とか耐えられそうだ。
 またクロと笑いあえる。昔のように隣で立っていられる。体に刻まれた傷が全て消えれば、その資格を手にすることができると信じる。
「笑うんだね」
 冷たい声に、マタタビは笑っていたことに気づく。
「ボクと離れられて幸せ?
 彼と一緒にいれて幸せ?
 ボクはキミが好きだよ。憎いくらいにね」
 与えられる痛みを何度も感じているうちに、頭に靄がかかる。視界が曇り、意識が落ちていく。その中でミーの声を聞く。
「好きじゃなかったら、こんなに楽しいわけがないじゃない。
 キミもボクが好きなんだよ。ね? そうでしょ。
 ボクはキミが好きだよ」
 最初で最後のキスをされた。
「キミのおかげで、あいつを殺せるしね」
 耳もとで囁かれた言葉の意味はわからなかった。
 ただ疲れ果てて、眠くて、マタタビは静かに目を閉じた。最後の快楽は胸に受けた。
「バイバイ」
 優しい声は地下に響く。
 胸から赤い血を流し、床に伏せているマタタビを踏みつけ、ミーは壁に設置していたカメラを止めた。




 翌日のことだった、クロの館に小包が届けられた。
「何だこれ」
「おい、爆弾とかだったらどうするんだよ」
 何の警戒もせずに小包を開いたクロにデビルが声をかける。
「大丈夫だろ」
 ありえない話ではなかったが、持った感じからしても爆弾といった印象は受けなかった。
 包装しを剥がし、蓋を開ける。
「――――え?」
 そこにあったのは、ビンにつけられた眼球と一枚のDVD。
 眼球の色には見覚えがあった。
「マ、タタビ……」
 片目になってしまった彼の色とよく似ていた。
「落ち着け。とりあえず、そのDVDを見てみようぜ」
 震えた手でビンを手にしたクロを落ち着かせる。
 クロは何も知らない。だがデビルは知っている。おそらく、これはミーの仕業なのだろう。
 再生されたDVDは想像通りのものだった。一方的な暴力を奮うミーと、それを喜んで受け入れるマタタビの姿が映っている。行為を行っている本人達ならばともかく、そういった趣味のないクロには耐えることのできない内容だ。
 現に、クロは何度か自分の嘔吐物で絨毯を汚している。それほどハードなものだった。
 DVDはマタタビが心臓を貫かれる場面で終わっていた。
「マタタビ。マタタビ。マタタビ……」
 クロはひたすらに名を呼ぶ。
 心の中は後悔だ。こんな世界に連れてきてしまった。失って気づくのだ。誰よりも大切な人だった。彼が隣に立ってくれていたから、こんな世界でも正気でいられた。
 デビルはあの時ミーを殺すべきだったのかと、頭の片隅で考える。大切なのは自分とクロだ。マタタビが死んだことに関しては特に思うところはない。
「殺す」
 一言、クロが口にした瞬間、部屋が冷たくなる。
「お、おい……」
 おぼつかない足で、部屋を出ようとする。
「殺してやる!」
 その目は正気ではなかった。
 デビルの愛する憎しみで溢れた瞳だ。
「……でも、お前はダメだ」
 クロを抱き締め、隠し持っていた麻酔を打ち込む。即効性のあるそれはすぐに効果を表し、クロはデビルの腕の中で眠る。
「あいつを殺すのはオレ様だからな」
 柔らかいソファにクロの体を降ろし、デビルは館を出る。クロにミーを殺されるのも、ミーにクロが殺されるのも不本意だ。しばらく様子を見るつもりだったが、そんな暇はない。
 デビルは鼻歌を歌いながら歩く。




綿





第十二幕