幸せな夢の中で生きていたい。
それができたのならば、それほど幸せだっただろうか。
夢の中から黒猫を引き上げたのは世界だった。
この世界は冷たい。
【世界は黒猫の存在を認めない】
目を開けると、そこは地獄のままだった。
赤い血が辺りに散らばり、死体が倒れている。これが悪夢であれば、どれだけ幸せなことだろうか。
ミーの様子が変わってから、この辺りにやってくる人間は少ない。一般人などは近づこうともしない。そのことに感謝しながら、クロは死体を見つめる。
触れてみるとすでに冷たくなっており、それが元々は生きて動いていたとは想像もできない。
「こうなっちまうと、ただの肉だよな」
人間としてみることはできない。あまりにも冷たい感情に、クロは自分こそ人間でないのだろうと自嘲する。
「もっと喜ぶといいズラ」
聞こえてきた声は知らぬ声だった。
こんなところに用がある人間がいるのだろうかと振り返る。そこにはクロよりも幾分か年上に見える青年がいた。サングラスの向こう側の瞳が楽しげに細められている。
「……誰」
青年はバイスと名乗る。
聞いたことはある。有名な情報屋だ。デビルもよく利用していたと聞く。
「デビル、死んだぞ」
「知ってるズラ」
瞳に悲しみは見えない。
デビルと何度も体を繋げたことのある男の反応とは思えない。二人の関係を知らぬクロの瞳には、ただの客と情報屋の関係にしか写らない。
「キミ、神様みたいズラね」
言葉の意味が理解できず首を傾げる。
「疫病神」
たった六つの音がクロを傷つけた。
「それか死神かもしれないズラ」
言葉から逃れるように、目をそらす。その先には死体がある。頭のないその死体に、今さらながら吐き気がした。
周りで死が溢れているのは当たり前だった。生まれてからずっと、そうやって生きてきたのだ。
幼い頃は餓死や病で死ぬ者が多かった。食べるものも住む場所もなかった。マフィアになってからは誰かの不幸と死の上に生きていた。死を見て心を痛めたことは何度もある。しかし、周りがそれを受け入れるように、クロもまた受け入れていた。
「それが悪いとは言わないズラよ」
バイスの目は優しい。その優しさでゆっくりと人を殺しているようだ。
「あの環境なら、誰でもそうなるズラ」
他人に肯定される。クロはそれを受け入れることができない。
誰かが肯定してくれるたび、クロは自分の罪を見せつけられる。
見知らぬ部下の死よりも、身近な者の死が辛かった。彼らのためにと手を赤く染め、それを理由に自分を保たせてきた。醜いことをして、彼らの存在を穢していた。その代わりに、彼らを死なせまいとした。
「……死んだんだ」
醜いことをして、彼らを穢すだけ穢して、結局は最後に残ったのはクロだった。
「責めてくれ。罰してくれ。罵ってくれ。殴ってくれ。蹴ってくれ。
――――殺してくれ」
逃げる。選択肢の一つをクロは口にする。
「神様な黒猫君」
バイスは優しくクロの頬を撫でた。
暖かい人の温もりがじわりと頬から体に広がる。
「きっとキミは生まれてくるべきではなかったズラ」
もしも、などという無限の可能性は口にするべきではない。
この惨劇も、クロの存在もすでに現実としてそこにある。
「ボクはね」
ナイフがクロの鳩尾に刺された。
「――――っあ、あ」
深く刺されたナイフを見て、目を見開き口から意味のない単語を吐く。
死を思わせる痛みを感じているのに、すぐに死ぬことはない。見ればバイスは優しい笑みを浮かべたままだ。壊れたという印象は受けない。
彼は、元々壊れているのだ。
「あっ、ああ」
「キミが嫌いズラ」
一気に下へナイフが降ろされる。
肉と皮と内臓が切り裂かれる。生きたまま感じていい感触ではない。声にならぬ悲鳴を上げ、目からは涙が流れる。
「でも、ボクは優しいから」
もはや言葉を紡ぐこともできないクロは恐怖に染められた目でバイスを見上げる。
「ちゃんと殺してあげるズラ」
いつの間にか腹から引き抜かれていたナイフは、未だに銀の光りを放っている。
クロの髪を掴み、強制的に顎を上げさせる。
「さようなら」
顎にナイフを当て、頭へ向かって一気に貫いた。
一瞬の痛みのあと、クロはようやく苦しみから解放される。
その死に顔は、お世辞にも幸せそうではなかった。
世界は黒猫の存在を認めない。
黒猫の鳴き声は世界に届かず、世界は黒猫を貫いた。
さよならと世界が呟き、黒猫は闇の中へ溶けて消えた。
苦しみの中で黒猫は尋ねた。真実はどこだと。
終幕