理性の欠落
背後から聞こえた声に、まさかと思いつつも振り向く。
「せやから、はよ殺さなあかんねんって」
真剣な瞳で黒面を睨みつけているのは『理性』を司っている兄ちゃんだった。
驚いたのはうしおだけではない。とらも黒面も、驚きを隠せずにいた。
黒面は全てを無理に一つにしたはず。それならば『理性』がここにいることはありえないはず。
「貴様……どうして」
唖然とした黒面の質問に、兄ちゃんは余裕を感じさせる笑みを向けて答える。
「うしおんとこに、自分の力をちょっと預けとっただけや」
あの世界で別れる前、兄ちゃんはうしおの手の甲にキスをした。おそらくあれが力を預ける儀式だったのだろう。
「オレは『安定』の言うことに賛成やから。
オレ達ははよ消えなあかんねんって」
黒面が理性のない獣に成り下がる音が聞こえる気がした。
「なあ」
呻く黒面を放って、兄ちゃんが儚い笑みを浮かべる。なのに、瞳は迷いのあるうしおの目を真っ直ぐに見据えている。
「アレ、どうおもう?」
兄ちゃんの言う『アレ』が黒面を指していることは明白で、うしおは一瞬迷いながらも口を開いた。
「可哀想な奴だと思う」
「……そうか」
普通のはずのことを、望むことさえも許されないような生き物なのだ。それを、他にどういえばいいのかわからない。
うしおは黒面が本当に腐っている生き物だとは思っていない。目の前にいる兄ちゃんが悪い奴とも思えない。あの白面と対等に渡りあう青年も、純粋に戦いを楽しんでいる風だった。
敵のはずなのに、憎みきることができない。
「せやけどな。アレはもう『生き物』とちゃうで。
オレがおらんから、『理性』のない獣に成り下がった。
ってわけで、安心して殺してくれや」
静かにうしおの手に、兄ちゃんは自分の手を重ねる。そして、うしおに獣の槍を強く握らせた。
「今しかないで?」
手を離し、軽くうしおの背中を押す。
未だに戸惑いをみせていることを感じ、兄ちゃんはとらに目を向ける。
黙って兄ちゃんとうしおのやりとりを聞いていたとらは、小さく笑い、うしおの隣に立つ。
「余計なことは考えんな。
言っただろ? ためらうな」
耳もとで言って、黒面へ向かって駆ける。
鋭い爪をむけて、一気に振り下ろす。
完全に獣と成り下がった黒面は、殺気を感じて後ろへ避けた。
「ちっ」
上手く不意をつけたと思っていただけに、不満を隠せない。
「とら、油断すんなよ!」
すぐにとらとの距離を縮めようと動く黒面に向けて、うしおが槍を突き出した。傷を負わせることはできなかったが、黒面を牽制することはできた。
接近戦は不利だと、とらは雷を黒面に向ける。しかし、それもあっさりと避けられてしまう。態勢が崩れている間に、うしおが槍で貫こうとするが、黒面の拳によって後ろへ飛ばされるだけ。
「こりゃ、不味いか?」
兄ちゃんは一歩離れたところで傍観している。
元々黒面の一部とはいえ、『理性』を司っていただけなので大した力を持っていないのだろう。
「せめて、『力』の奴でも引き出せたらなぁ」
のん気な口調だが、その瞳は真剣だった。
十八話