さよなら  黒面との攻防を眺めていた兄ちゃんは、白面のことを考えていた。
 直接、白面と会ったことはないが、同じ精神世界で起きたことは漠然と把握している。当然、『力』を司る青年が、白面のことを気に入っていたことも知っている。
 一瞬でも青年と話せれば、交渉の余地もあるかもしれないが、『存在』である黒面にたかが『力』が勝てるはずもない。
「あー。どうしよかなぁ」
 目の前で繰り広げられている戦いに干渉できる自信はない。むしろ、干渉したところで、二人のコンビネーションに水を差すだけだろう。
「なあ、どう思う?」
 そう言って見上げた先には、白面がいた。
「我に何を求める?」
「手助けを」
 白面は鼻で笑う。
「くだらん」
 力の源を絶たれていたとはいえ、様々な手助けがあったとはいえ、自分を負かした相手の力がこの程度のはずがない。白面の目に映るうしおは未だに迷いを断ち切れていなかった。
 『理性』の言葉に、多少は動かされたようだが、まだ足りない。
「疲れってのを知らないのかよ……」
 呻くようにうしおが言い、とらがそれを叱咤する。
「わかってるよ!」
 地面を蹴り、黒面へ槍を突き出す。すぐに避けられ、拳が迫るが、それを槍の柄で受け流す。
 防御の手段がない脇へ右足を繰り出すが、寸前のところで遮られてしまった。両の手を攻撃と防御に使った黒面の背後を、とらが襲うが素早い動きで避けられてしまう。
「っち!」
 いつまで経っても終わる気配の見えぬ戦いに、とらは舌打ちをする。
 その間にも黒面は鋭く伸びた爪をとらに振り降ろす。
「とら!」
 腕の肉が爪に持っていかれてしまい、とらは腕からおびただしい量の血を流す。
「こんくれぇ、大丈夫だ! 気を抜くんじゃねぇ!」
 理性のない黒面は、本能のままに襲う。油断すれば、うしおの柔い首など一瞬で落ちてしまうだろう。
『――し――て』
 どこからか、声がした。
『――ボ――を――し――て』
 耳で聞くのではなく、頭の中に直接響くような声だ。
 うしおやとらにとっては不快でなかったが、黒面は動きを止めて地面を見つめている。
『ボクらを、殺して』
 はっきりと届いた声は、死を願う声だった。
「君は……あの時の……?」
 うしおととらを黒面の精神世界へと導いた少年の声だった。
 優しくて、どこか儚さのある声は忘れられない。
「それは『安定』の声や」
 兄ちゃんが言った。
「ああ……それで」
 それで、あのようなことができたのかと納得する。
「なあ、殺してくれへんか?
 オレ達は死にたい。消えたいんや」
 黒面が制止している隙に、うしおの迷いを立ちきろうとする。
「『安定』もオレも消えるべきやと思ってる。『力』はそんな頭ないし、『存在』はまあ、見ての通りやけど……。
 多数決や。消えたい二票。どーでもいい一票。存在したい一票。な? 決まりやろ?」
 うしおは兄ちゃんの方を見ない。
 肩を震わせて、歯を食いしばっている。
「ぶちまけちまえ。その方がスッキリすんだろ?」
 その声に後押しされ、うしおは兄ちゃんの方へ目を向けた。
 向けられた目が強い意思で自分を非難していると感じ、兄ちゃんは思わず後ずさる。
「そんなわけないだろ!」
 うしおの叫びは木々を揺らした。
「死にたいなんて、そんなわけないだろ!
 嘘つくなよ! 本当は生きたいんだ。みんなと、一緒にいたいんだ!」
 悲痛な叫びに、兄ちゃんが泣きそうな顔をした。
 真っ直ぐ胸に突き刺さる言葉は、否定のしようがないほど真実だ。
 生きたい。存在したい。本当は、もっとちゃんとした形で生まれたかった。
「こんな……こんな風に世界におったって、辛いだけなんや! もう、もう無理やねん!」
「諦めんなよ!!」
 何にも包まず、感情を爆発させあった。
 黒面の爪が、うしおの腹を貫通するまでは。
「――え?」
 急な感触に、うしおが腹を見る。本来突き出るはずのないものが、赤い血をまとって突き出ていた。
「しまった……!」
 とらも兄ちゃんとうしおの会話に気を取られていたため、黒面の動きに気づけなかった。
「キレイゴトヲ イウナ」
 腹から手を抜き、黒面は言った。
「トウゼンノ ヨウニ セカイニ ソンザイ シテ。
 ワレラノ キモチナド ワカラナイ クセニ」
 感情を帯びない声は冷たく、寂しい。
「お前が、お前が普通に、生きたいって言うなら止めなかったさ!」
 腹を抑え、槍を握り、うしおは叫ぶ。
 普通にという言葉が通用しないほど、黒面の存在は歪んでいる。
 人間の中に紛れることも、妖怪の中に紛れることも、黒面は考えられない。自分が異端だと、苦しいほど知っている。
「ダマレ ダマレ ダマレ」
 赤に染まった爪を振る。それをうしおは槍で受け流し、先ほどとよりもキレのある攻撃を繰り出す。
 とらも参戦し、黒面とうしお達は一進一退の激しい攻防を繰り広げた。
 黒面は未だに人の形を保っている。獣の形をとる目に、決着をつけねばならない。誰に言われるでもなく二人はそれを感じ取っていた。
「でも、お前が、みんなを傷つけるなら、止めなきゃいけないんだよ!」
 うしおは涙を流していた。
 いつかの遠野での戦いのように。いつかの病院での戦いのように。
 黒面を殺したくはない。だが、殺さなくてはいけないのだ。ただ、存在したかっただけの生き物と。
「謝るなよ」
 一瞬、ヘラリと笑った。
 『力』の青年のような笑みだった。
 獣の槍が黒面の腹を突き刺し、とらの雷がその身を焼いた。
「ありがとう」
 『安定』のように儚い声で礼を言う。
 そして、黒面の体は崩れた。
「な、んで」
 あの程度の攻撃で死ぬわけがない。なのに、何故か黒面の体は灰となって消えた。
「みんな、もう潮時やって、わかってたんや」
 振り向くと、満足そうに笑う兄ちゃんと目が合った。
「さよならや」
 小さく振られた手もすぐに消えた。
「終わったな」
 とらが呟いたが、うしおの耳には届かない。
 あまりにもあっけない終わり方だった。


十九話